「キャンバスを新しく用意する必要はありません。すでにあったキャンバスを利用したのですから」

「すでにあった?」

 そうですよ、と言って、築垣はまた詩織の方へ体の正面を向けた。

「詩織先輩はたしか、もともとピエロの絵を描いていたのですよね」

 そうだけど、と答えた詩織の顔には、すでに表情がなかった。目の焦点も合っていないようだ。しかし築垣は、それを気にする様子を見せず、再度体を返して忍川の方を向く。そして、

「ピエロの鼻は真っ赤です」

 と言った。だからなんだ、と忍川は問い返す。それを利用したのではないでしょうかと言って、築垣は語りを続けた。

「猿渡先生の『魔の夜』は、とてもシンプルな構造の絵でした。真っ黒な背景に、赤い月が浮かんでいる――それだけのものです。であれば、もともと赤い円が描かれていた詩織先輩のピエロの絵を使えば簡単にダミーは作れます。赤い鼻を残して、残りのすべてを黒く塗りつぶしてしまえばいいのですから。実際に忍川先輩はそうしました。しかし他人の絵を勝手に使ってはさすがにまずい。だからきっとそこでも、詩織先輩の知恵を出したのでしょう。現在の詩織先輩の絵は、どうなっていますか?」

 築垣は詩織の横を抜けて、その後ろにある棚の前へ歩み寄った。

 さまざまな作品がそこには飾られている。その中の――。

 詩織の作品――フラミンゴの絵――の前で築垣は足を止めた。

 鮮やかなまでに赤いフラミンゴが、背景の黒によって映えている。

「詩織先輩――」

 さらに絵を上描きしましたね、と築垣は振り返った。

「猿渡先生も言っていました。どうしてピエロの絵からフラミンゴの絵に描きかえてしまったのかと。それに対して詩織先輩は、つまらないから描き変えてやったと言っていました。動物が描きたかったのだと。でも――」

 それは嘘ですねと築垣は言った。そして絵を眺めつつ続けた。

「詩織先輩はダミーの絵の上へさらに絵の具を乗せたんです。ダミーの絵を隠すために。そのために使われた色は――」

 赤です、と築垣は断言した。

「当然です。ダミーも、元の『魔の夜』も、絵に使われていた色は黒と赤。赤色の月を胴体に見立てれば、フラミンゴの絵を描くことなんて造作もないことです」

「いつ、そんなことを」

「それはわかりません。

でも切り裂かれた絵を猿渡先生が発見したのが三時間目の終わりであるならば、それ以前ということになるでしょう。もしそのときにダミーが残っていれば、猿渡先生は二枚の『魔の夜』を見ることになり、当然その時点でダミーの存在に気づくはずです。でも猿渡先生はダミーについては何も話していませんでした。油絵を隠せる場所なんてほとんどありませんから、このときはすでにダミーは存在していなかったのでしょう。つまりフラミンゴに描き変えられていたのです。ということはフラミンゴの絵が描かれたのは三時間目の開始よりも前の時間帯ということになります。さらに一時間目に橋本さんがダミーの『魔の夜』を見たと言っていますからそれより以降ということになります。そして詩織先輩が自由に動ける時間帯を加えて考えると、もう二時間目の終わり五分しかありません」

 そうするともう一つの疑問にも答えが出ます、と築垣は言った。もう一つの疑問ってなに、と詩織はいぶかしむ。

 教壇の下から切り裂かれた魔の夜を取り出したタイミングですよ、と築垣は答えた。

「まさかたった五分の間に、教壇を持ち上げるような大変な作業と、ダミーを塗りつぶすまでのすべてができるとは思えませんからね。この二つは二回に分けて行われたことでしょう。一時間目の開始から二時間目の終了までの間で詩織先輩が自由になれる時間は、授業最後の五分が二回。その内二時間目の終わり五分はダミーをフラミンゴに描き変えることに使われていた。ならば教壇の下から切り裂かれた『魔の夜』を取り出したのは一時間目の終わり五分ということに、自然となります」

「でも、全部想像でしょ」

「作戦の内容が行なわれたのかについては、たしかに想像の範囲を超えられません。ですが、行われた作戦のが事実か否かは、このフラミンゴの絵の絵の具を剥がしてみればわかります。もしこの下から『魔の夜』が、さらにその下からピエロの絵が出てきたら――それが証拠となります」

 まだ絵の具も乾ききっていないでしょうし、と築垣は絵の表面を指先で触りながら言った。

「でも――」

「もう無理だ」

 さらに反論しようとした詩織の声を、忍川が遮った。忍川は椅子から立ち上がり、よろよろとした足取りで作品の並ぶ棚の方へ歩いていった。

「さすがに探偵を名乗るだけのことはあるな。その通りだよ。いや、僕は――もうバレているから白状してしまうけれど――僕が実際にやったことは絵を破くこととダミーを創ることの二つだけだから、わからない部分もあるけど――」

 そうなんだろ、と忍川は詩織の肩に手を乗せた。

 下を向いていた詩織の頭が、肩の間にかくんと落ちた。頷いたのだろう。

「ダミーを創った方法も、きみ――築垣さんだっけ――の言う通りさ」

 降参だ降参、と忍川は肩をそびやかし、両手を胸元の高さにあげててのひらを築垣に向けた。

「隠蔽工作のほとんどは、詩織先輩が考え、こなしました。ですが、だからこそ隙ができてしまった。役割を分担していれば――それこそケルベロスのように――全く隙のない動きができたはずなのに」

 いや出来なかったのでしょうね、と築垣は横を向いた。

「詩織先輩にとってはまったくもって突然の出来事だったはずですから、綿密な相談なんかできるわけもなかった。それが――ケルベロスの隙になってしまったわけだ」

 その言葉は誰かに向けていったというより、築垣の考察が口から漏れただけのように聞こえた。

「そこまで分かっているんだったら、どうして僕が絵を破いたのか、その動機まで分かっているんじゃないのかい」

 忍川が問う。ええ何となくは、と築垣は返した。

「詩織先輩は、コンクールで優勝するために猿渡先生の指導を受けながらピエロの油絵を描いたということでした。でも、それがつまらないと詩織先輩は言いました。」

 つまらないというのは本音なのではないでしょうか、と築垣は言った。

「動物を描きたいという思いは本当にあった。コンクールで優勝するためではなく、自分の描きたい絵があった。そしてそれを描いてもいいのだということを途中で知った。だから詩織先輩は今回の計画の中に、自分のピエロの絵を塗り潰してダミーを創ることを盛り込むことができた」

 待ちたまえよ、と忍川が止める。

「詩織のことを聴いてるんじゃない。僕がどうして魔の夜を破いたのかって動機について聴いてるんだ」

「わかっています。さっきもいった通り、詩織先輩は好きな絵を描いていいことをのです。なぜ知ったのかといえば、おそらく、忍川先輩に教えられたからではないでしょうか。それは猿渡先生も指摘していたことです」

 あの時――と築垣は詩織の正面へ回り込む。詩織は下を向いたままだ。

「なぜピエロの絵を描き変えてしまったのかと猿渡先生に問い詰められていた時――猿渡先生は言っていましたね。詩織先輩は忍川先輩とだったのではないか、と。それを詩織先輩は、下衆げす勘繰かんぐりはやめてくださいと一蹴いっしゅうしました」

 下品な言い草だと僕も思いました、と築垣は詩織の感じただろうことへ共感を示した。

「僕でも怒っていたでしょう。ですが表現はともかく、詩織先輩と忍川先輩は、本当に恋人同士だったのではないですか」

 俯いていた詩織の顔があがった。目が見開かれている。

 その目から視線をらせた――わけではないのだろうが――築垣は横を向いて、また忍川の方を向いた。

「教えたということは、忍川先輩も同じ不満をいだいていたはず。その不満こそが、絵を破いた動機だと、僕は思いました」

 ふう、と忍川は鼻からため息を漏らす。

「正解だよ」

 あの野郎、と忍川は詩織の方から手を離し、その手を握りしめた。

「猿渡の奴、あいつは自分のことしか考えてないんだ。僕たちが描きたいことばかりか、あいつは自分の描きたいものさえ抑えてる」

 評価を得るためだよ、と言った忍川の声は震えていた。

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