築垣は俺から林田へ視線を移す。

「そのときに、教壇の位置も直したんですよね」

「ああ、そうだぜ。ずれてたからな」

 築垣は林田に軽く目礼もくれいをしてから、美術室の後ろ側に立っている詩織に顔を向けた。

「だそうです。でも、下敷きのような薄っぺらい板ならいざ知らず、こんな巨大な板が勝手に動くなんてことはないんです。それがずれていた。なぜでしょう」

 ずらしたからですよ、と築垣は言った。

「詩織先輩が絵を隠したのは、この教壇の陰です。具体的には、壁と接している此処ここだったのではないでしょうか」

 築垣は腰を屈めて、黒板の張り付いている壁の下側を指さした。

「おそらくそれまでは、誰の目にもきっちり壁にくっ付いているようにのでしょう。ですが実際は紙一枚――油絵だから布一枚と言うべきでしょうか――それが通るくらいの隙間があった。詩織先輩はこの隙間に絵を隠した。ところが――」

 布は柔らかいですからね、と築垣はかがめていた腰を伸ばす。

「隙間に落としたところで曲がって教壇の下に滑り込んでしまった。そうするともう、指では取り出せません。教壇を持ち上げるには力がいるし、音もします。何より時間がなかった。だから詩織先輩は、疑惑の十分間に絵を撒くことが出来なかったのです」

 詩織が反論しようとしたのか口を開く。が、それを見切っていたように、

「そこで」

 と築垣が先に言葉を発した。

「そこで詩織先輩は仕方なく、絵を撒かずに美術室を出たのです。でも、絵がばら撒かれている状況をどこかで作る必要があります。それを第三者に見せなければ事件化しませんし、なるべく早く事件化しないと、林田先輩に疑惑をかけることが難しくなりますからね。そうなれば真犯人である忍川先輩の身も危なくなってくる。そこで詩織先輩は、日直という立場を利用して授業を五分早く抜け出し、美術室へ来て、教壇の下から絵を取り出し、ばら撒いたのです。それは一時間目の終わりか、二時間目の終わりのどちらかの時間帯に間違いありません。どちらにせよ、猿渡先生は三時間目が始まる前に破れた絵が散らかっているのを発見しているのですから、それ以前の時間帯ではあるでしょう」

「証拠は? そこに私が絵を描くしたっていう証拠はあるの?」

「皆さんに集まってもらう前に、僕はひと通りこの美術室の中を調べてみたんです。そうしたら、この教壇の――」

 築垣は教壇の前にしゃがみ込み、その側面を覗き込むようにして、

「把手のところに――」

 血痕があったんですと言った。

「特徴的な血痕でした」

 それは俺も見覚えがある。というよりさっき見たばっかりだ。

 濃い赤色の直線が走っていて、その周りを薄い――というよりかすれた赤色が囲んでいる。その掠れた部分の輪郭が、指の腹のような形をしている――そんな血痕だった。

 築垣もそれと同じような説明をした。

「指紋の検出なんてもちろんできません」

 しゃがみ込んでいた築垣は立ち上がってそう言った。

「断定はできませんが、おそらく指紋でしょう」

 指紋検出なんてできるわけがありませんが、と築垣は続ける。

「赤い直線と、それを囲むかのような掠れた赤い色の跡は、ちょっと珍しい」

 詩織先輩、と築垣は呼ぶ。何、と詩織は張り詰めた表情で応じた。

「指に絆創膏を巻いていますね。体育で負った怪我ではない――そもそも体育が今日はなかった――という話でしたが、ではその怪我の原因はなんですか。いや――」

 傷跡はどんな形をしているのですか。

「見せてもらえると助かるのですが」

 うるさい煩い煩い、と詩織は頭を左右に振った。長い黒髪が乱れる。

「そうだとして、あんな分厚い板を、どうやって私が持ち上げたっていうわけ? あんただってさっき、あんな巨大な板が動くわけがないって言ってたでしょ。自然に動かないのは当然として、人力だって無理だよ」

 ――そうだとして、って。

 何がなのだろう。もちろん文脈からその内容は察することはできる。絵の断片を隠した場所がそこであることと、疑惑の十分間に絵をばら撒かなった理由のことだ。おそらく。

 だが、そうだとして、と表現することでそれを事実と認めてしまいかねないことに、詩織は気づいていないのだろうか。それとも気づいていつつも、焦りがそう言わせてしまっているのか。

 僕も思います詩織先輩、と築垣は言った。

「でも、道具を使えば不可能ではありません。詩織先輩、掃除用具入れを開けてみてください」

「なんで」

「お願いできませんか」

 詩織は唾を飲み込んだ――ように見えた。返事をしないまま、掃除用具入れに向かう。だがその足取りは緩慢かんまんだった。おびえてでもいるかのようだ。

「折れたモップが入っているはずです」

 築垣がそう言うと、詩織の足は止まった。首をひねって築垣の方へ顔を向ける。

 その横顔を俺は見ている。

 唇が、震えていた。

 知っていますよと築垣は言った。

「さっきも言った通り、ひと通り美術室の中を調べましたから、折れたモップにも血がついていました」

 築垣は最前列の椅子を引っ張り、これも道具のひとつですと言った。

 俺の席からは見えないが、その椅子の特徴を俺は知っている。

 座ったときに右太腿ふとももの外側が当たるほんの僅かな部分だけが砕けており、座面全体に擦り傷のような傷がついているはずだ。もっとも、大きく破損しているわけではないから椅子としては充分使える。

 詩織先輩は梃子てこを使ったのです、と築垣は言った。

「この椅子にモップを乗せて、柄の先端を教壇の把手にかけて持ち上げたのでしょう。ところがモップはその重さに耐えきれなかった。柄がぽっきりと折れてしまったのです。椅子も耐えきれませんでした。だから座面の一部が壊れているのでしょう。詩織先輩は咄嗟に、支点となっていた椅子を蹴るか押すかして、まだ持ち上がったままの教壇の下へじ込んだのです。椅子は教壇に対して横に設置されていたはずですが、押せばねじ込むことは可能でしょう。そのときにこの椅子の座面は教団の裏側に当たって擦れたのです。とにかく椅子によって固定された教壇の下から、詩織先輩は絵を取り出します。それから椅子をゆっくりと引きながら、教壇を床におろしたのです。その最中には、把手とってに指を入れる段階もあったでしょう」

 語りながら、築垣はゆっくりと美術室の中を横断して、詩織のもとへ歩み寄っていく。

「詩織先輩の傷は、おそらくモップの折れ目に引っ掛けてできたもの。そして教壇を降ろすときに、血の出た指で把手を支えたときに、さっきの特徴的な血痕が残ったもの――と僕は推察しました」

 語り終えると同時に、築垣は足を止めた。両手を腰の後ろで組む。その正面では詩織が俯いて立っている。

 詩織は、無言のままだった。

「待て」

 再び忍川が口を開いた。築垣は体ごと向きを変えた。

 忍川は席に座ったまま、両手を拳にして机に押し付けている。

「百歩譲ってそこまではいいとして、だよ。でも、前提に無理がある。僕がダミーを創ったというが、そもそも、そのためのキャンバスはどうやって用意したっていうんだよ。それと、そのダミーは今どこにあるっていうんだ」

 築垣は人差し指を立てた。

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