「本当にそうですか? 僕にはそうは思えないのですが」

 詩織は鼻から息を抜き、頭にくる言い方ねと言った。

「言いたいことがあるんだったら言ったらいいでしょ。私がジャージを着ている理由を、動きやすいからじゃないとしたら、なんでだとあんたは思うわけ?」

――そう思います」

「はあ?」

「これは二時間目の後の休み時間に、廊下で大勢の生徒が見ていたことですが――」

 築垣はその場を行き来しながら語る。

「――橋本さんと猿渡先生が喧嘩をしていたんです」

「喧嘩? なんで」

「橋本さんは猿渡先生に頼まれて、美術室の椅子のペンキを塗り替えたのだそうです。しかし塗り方が雑だと猿渡先生が文句をつけて、それに対して橋本さんは丁寧に塗ったのだと主張し、ぶつかり合ったのです。それが喧嘩の原因です。ちなみに、疑惑の十分間に橋本さんが美術室へ入ったのはペンキを塗り替えるためです。しかしそのときには誰もいなかった。詩織先輩は林田先輩を探しに出ていたのだし、忍川先輩はどん詰まりに隠れていたからです。そして誰にも会わずに去っていった」

 だからこそ、と築垣は語気を強める。

「詩織先輩は知らなかんです。その間に橋本さんが美術室に出入りして、あまつさえ椅子のペンキを塗り替えたことを。橋本さんが出ていった後、詩織先輩は林田先輩とともに美術室に戻りました」

 正確に言うなら、詩織先輩は少し遅れて美術室に入りました、と築垣は訂正する。

「美術室に入った詩織先輩は、林田先輩とともに椅子を並べて座った。その椅子こそが――」

 築垣は急に速足になると窓際まで行き、その近くにあった椅子を引っ張り出して、これですと宣言した。

 汚い――椅子だった。

 固まったペンキが平らではない。凹凸がある。濃淡もまばらだ。

 築垣も、昼休みにこの椅子を見て、汚い椅子だと言っていたのを思い出した。

「猿渡先生はこれを見て汚いと思ったのでしょう。僕も汚いと思いました。だから橋本さんに文句をつけたのです。これを見れば慥かに文句の一つも言いたくなるでしょう。しかし橋本さんもおそらく嘘は言っていなかった。橋本さんは事実、もっと綺麗にペンキを塗ったのです。ところが――」

 自分が美術室を出た後に詩織先輩が座ってしまったのです、と築垣は言った。

「それを橋本さんが知るはずもありません。結果――」

 汚い椅子を見た猿渡先生と、綺麗に塗ったという自負を持った橋本さんの間で齟齬そごが生まれ――。

「喧嘩になってしまったのです」

 と築垣は結んだ。間髪を入れずに詩織が、

「想像に過ぎない」

 と叫んだ。ええ想像に過ぎません、と築垣は冷静さを保ったまま答えた。

「――今のところは」

「どういうこと?」

「詩織先輩。制服を見せてもらえませんか。白いペンキの跡があれば、それが証拠となります。いえ、実際に見せてくれなくても構いません。見せることができるかどうか、その返事だけでも貰えませんか」

 詩織は――。

 忙しくなく瞬きをして、そして――。

 下を向いてしまった。

 その沈黙を肯定と築垣は受け取ったのか、

「制服にペンキが着いているのならば、それが、疑惑の十分間に橋本さんが美術室へ来ていたことのあかしとなります」

 そう言った。

「でも、まだ納得できない」

 詩織は別の疑問を築垣にぶつける。

「私が絵をばら撒いたのだとして、じゃあ、なんで疑惑の十分間に私は絵をばら撒かなったわけ? 林田が美術室を出るときは絵はばら撒かれてなかったんでしょ。だったら実際に絵がばら撒かれたのは、猿渡先生が絵の断片を見つけた三時間目の始めまでの間。私はその間授業を抜け出したりなんてしなかったし、合間の十分間もほとんど友達といたんだよ。それでいつ私が絵を撒いたっていうわけ?」

 無理じゃんと詩織が言うと、無理ではありませんと築垣は返した。

「たしかに詩織先輩はきちんと授業を受けたのでしょう。友達と過ごしたという話も僕は疑いません。しかし、自由になる時間があったはずです」

 五分間だけ、と築垣はてのひらを詩織に向けた。

 詩織は黙っている。

「だって――」

 日直だったじゃないですかと築垣は言った。

「僕はまだ一年生ですが、もう半年はこの学校に通っています。基本的なことは分かっています。日直は――」

 授業が終わる五分前に授業を抜けていいことになっているじゃありませんかと築垣は言った。

 その通りだ。

 日直は、次の授業の前に教科担任のところへ行って準備や伝言がないかを聞きに行かなければならない。そのために日直だけは授業が終わる五分前に授業を抜けてよいという――がある。

 詩織先輩は、その時間を利用して美術室へ来たと思われます。

「じゃあ――」

 ほとんど叫ぶような声を詩織はあげた。なんで私はその五分を利用しなければならなかったわけ、と食い下がる。

「疑惑の十分間に絵をばら撒かっなかったのはなんでだっていうわけ」

 自分のことなのに、築垣に尋ねている。尋常じんじょうな状態ではない。しかし築垣はそれを指摘することなく、訊かれるままに答えた。

「そこでもまた、不測の事態に襲われてしまったのでしょう。もちろん詩織先輩は、その十分の間に絵を撒くつもりではあったのだと思います。ですが、一時的に隠しておいたその絵が、不覚にもからだ――と僕は考えます」

「取り出せないって、どういうこと? そもそも、どこに隠していたっていうの」

「あそこですよ」

 築垣は腕を伸ばして、黒板のある方を指さした。

 詩織はその指先を見る。俺も見た。

 忍川も林田も、上半身を捻って顔をそちらへ向ける。

「教壇の下です」

 と築垣は言った。言いながらそちらへ歩を進める。そして教壇の脇に立って、

「水沢先輩」

 急に俺の名を呼んだ。

 ずっと黙っていたしいきなりの指名だったから、俺の返事は、んあ、という踏みつけられたかえるの声のようなものになってしまった。

「水沢先輩は昼休みに、美術室を片付けるように言われたんですよね」

 まあな、と俺は答える。

「つっても俺はこんな足だから、実際に片付けたのはほとんど林田だったけど」

 そう言いつつ林田を見る。目が合う。それで林田は自分が発言を求められていることに気づいたらしく、急に背筋を伸ばして、

「そうそう」

 とうなずいた。

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