「忍川先輩は実に、一時間目から四時間目までのほぼ四時間にわたる時間を職員室で過ごしていたことになります」

「そう――だな」

 忍川は慎重そうな口調で、築垣の言い分を認めた。下手に認めることで足元をすくわれないように――と警戒しているのかもしれない。

「一方猿渡先生はと言えば、いったん職員室を抜けています。三時間目に授業が入っていたからです。三時間目のために職員室を出た猿渡先生は美術室へ行きました。そこで、発見してしまったのです」

 破られた魔の夜を。

「猿渡先生は、破られた断片をすべて集めて美術準備室に隠して三時間目の授業を終えました。そのあと、鬼瓦先生に呼ばれて再び職員室へ戻りました」

 忍川の描いた絵の出来を猿渡に見せたくて、わざわざ呼びに来たのだと言っていた。

「猿渡先生はすべての断片を隠したつもりだったのですが、職員室へ戻ってそうではなかったことに気づきました。シャツの袖に、細かい断片がひとつ、くっ付いていたそうです。それが職員室へ行ったところで床に落ちた。それを忍川先輩が見つけました」

 長い回り道でしたが、やっと忍川先輩の問いに答えることができます、と築垣は息を吐いた。

「床に落ちた断片を見た忍川先輩は、それが魔の夜と気づきました。しかも、それが林田先輩が切り裂いたのだとも言ったそうではないですか。具体的には――」

 

 美術室の中から出てきた林田を見た――。

 その後の美術室には八つ裂きにされた魔の夜の破片が散らばっていた――。


「そう言ったそうですね」

「それがどうした」

「どうしたじゃありませんよ。仮に忍川先輩の言うとおり、犯行が一時間目以降に行われたのだとしたら、ですよ。どうして、

 忍川は胸元を抑えた。まるで心臓発作でも起きたかのように、シャツを握りしめて苦しそうな表情を浮かべる。

「もし忍川先輩が目撃できたとするなら、一時間目より前しかないでしょう」

「いや」

 いやそんなことはない、と忍川は踏ん張る。

「僕はたしかに見た」

「いつですか」

「職員室へ連れて行かれる最中さ」

 そう、そうだよ、と今ひらめいたかのように明るい声を出す。

「猿渡先生について職員室へ行く最中に、ちらっと美術室を見たんだよ。そのときに見たのさ」

 あり得ません、と築垣は非情に切り捨てた。なぜだね、と忍川は枯れた声でただす。

「瀧本さんから聴いています。どん詰まりにいた忍川先輩は、猿渡先生に連行されていくとき、どん詰まりから西側へ向かっていった――と」

 ――そうだ。

 そういう話だった。

 美術室から見てどん詰まりは左。美術室は反対側の右にある。距離は俺の歩幅で二十歩ほど。とても見える距離ではない。

 いや、でも、と忍川はまだあきらめない。

「歩いている最中に振り向いたんだ。そうしたら本当に林田が美術室から出てきたのが見えたんだ」

「だとしても、です。林田先輩は見ることが出来たとしても、美術室の床は見えないでしょう。なのにどうして、切り裂かれた魔の夜が散らばっていると言えたのですか」

「それは――」

 忍川は近くの机に手をついた。倒れないように耐えたようだった。

 答えられないようですね、と築垣は言った。

「それこそが、忍川先輩の問いに対する答えですよ」

「問い?」

「そうです。忍川先輩がダミーを創ったという証拠は何か、という問いです。見えるはずのない現場を見たと証言した――そして橋本さんが、あるはずのない絵を見た――これが答えです」

 忍川がため息を吐いた。目の前の議論に必死で、大局を見失っていたのだろう。

「そして、詩織先輩が作戦を練ったとなぜ言えるのか、という問いの答えも、この中に見えてきます。始めにも話した通り、忍川先輩がどん詰まりにいた理由は、破れた絵の断片が散らばっている美術室から林田先輩が出てくるのを目撃するため――だったからです。計画が失敗していることを知らなかったために、計画通りになっているなら実現しているはずの光景を、忍川先輩は話してしまったのです」

 ふたたび沈黙が訪れた。

 かなかなかな、と今度はひぐらしが鳴いた。

 忍川は築垣に背中を向け、のったりとした足取りでもともと座っていた席へ戻った。

「でも、待ってよ」

 ずっと黙っていた詩織が、再び口を開いた。左手で右の上腕部を抱えている。そのさまには、どことなく痛々しいものを感じた。

「そもそも、橋本さんは本当に、休み時間に美術室に入ったわけ?」

「そう言っていました」

「あなたがそう言っているだけでしょ? 橋本さんが美術室に入ったことが前提だから十分間の事実関係が狂ってくるって話だったじゃん。だとしたら、その橋本さんの証言をあなたがでっち上げてるだけとも考えられる。その可能性はないわけ?」

「ないでしょう」

随分ずいぶんな自信。そこまで言うなら、その理由を話す覚悟はもちろんあるんだよね」

 ありますよ、と築垣は答えた。

「詩織先輩」

「なに」

「詩織先輩はなぜ――」

 なぜ――。


 なぜ


 築垣は唐突にそううた。

「は?」

 なんでって――と詩織はせわしなくまたたきをする。

「別にいいでしょ。そりゃあ校則には普段は制服で過ごすようにって書いてあるけど、ほとんどの生徒は動きやすい格好で過ごしてるし、先生たちだってそれで文句を言うことなんてないんだから」

 何の問題もない、と詩織は眉間にしわを寄せていやそうな顔をした。

 校則の話ではありませんよと築垣はなす。

「これも橋本さんから聴いた話ですが、詩織先輩は今日、登校してきたときは制服だったそうじゃないですか。それに体育があったわけでもない。それなのにずっと――」

 朝からジャージですよねと念を押す。

「それは、なぜですか」

「動きやすいからってば」

 苛立いらだたしげに詩織は答えた。

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