「橋本さんがいなくなってから、詩織先輩は林田先輩を伴って美術室に戻ります。ここで気になるのが、林田先輩の証言です」

「俺、なんか言ったっけ?」

「ええ。美術室には、詩織先輩と同時に入ったのではなくて、先に林田先輩が入っていたのですよね」

「ああ、そう言えばそうだったなあ」

 林田先輩は頭の後ろで手を組む。

「一分くらいは、ひとりで座ってたな」

 その一分に情報伝達がなされました、と築垣は言った。なんのことだと林田は前のめりになる。

「美術室へ戻る直前、どん詰まりの前を通りますが、そこにはすでに忍川先輩が隠れていました。詩織先輩は、忍川先輩から呼び止められたために、林田先輩を先に行かせたのではないですか」

「よく覚えてねえ」

 とぼけているのか本当に覚えていないのか、林田はあっけらかんとそう言った。が、詩織と忍川の表情を見ると事実だろうと予想できた。詩織は唇を噛んでいるし、忍川はしきりに鼻を擦っている。

「忍川先輩から詩織先輩に伝達された内容こそが、中庭越しの廊下から聞こえてきた、尾花さんと瀧本さんの内緒話です」

「なんでそんなことを伝える必要があるんだよ」

 忍川が聞き取りにくい発音で尋ねた。

「休み時間の後半五分の、林田先輩のアリバイを作るためです」

 く――と詩織がうめく。築垣の語りはまだ終わらない。

「休み時間に校長先生を交えて話したときも、そこが問題になりました。林田先輩は美術室にいたものの、後半の五分はひとりだった、その時間に水沢先輩を階段から突き落としたのではないか――と」

 しかしその空白は埋まりました、と築垣は振り返る。

「その五分間に、内緒話を聞いていたと林田先輩ご自身が証言したからです。ですが実際は、後半の五分に聞いたのではありません。十分間のごく始めの方で、ダミーをつくっている忍川先輩が聴いたのです。その内容を忍川先輩は詩織先輩に伝え、詩織先輩は林田先輩に伝えたのです。とでも言って。休み時間の後半五分に空白が生まれてしまうことをわかっていたので、あらかじめ手を打ったのでしょう」

 語りは続く。

「詩織先輩は、忍川先輩から情報を受け取ってから、林田先輩に遅れて美術室に入りました。そして本当に愛を語り合ったのではないでしょうか」

 そうでなくては目を瞑らせることはできませんからね、と築垣は言う。

「詩織先輩は林田先輩に目を瞑らせ、その間に破れている絵を床に撒いてこっそり退室する予定だったはずです。ところが――」

 ここでまた不測の事態が詩織先輩を襲います、と築垣は言った。

「隠しておいた魔の絵の断片が取り出せなくなってしまったのです。そこで仕方なく、詩織先輩は何もせずに――いや、出来ずに――ひとりで美術室を去ったのです」

 だから林田先輩が目を開けたときには破れた絵は散らばっていなかったのです、と築垣は結んだ。

 長い語りが終わると、沈黙が訪れた。夕日がさらに傾き、床に落ちる影がさらに長く伸びていた。

「でも、待てよ」

 ぼそりとした声で、忍川が沈黙を破った。なんですかと築垣が応じる。

「今話したのって、全部想像だろ。僕だって聴いてるんだ。橋本さんは一時間目にも美術室へ来ているそうじゃないか」

「よくご存知で」

「その時にはまだ魔の夜があったと話していたぞ」

「ですから、橋本さんが見たのは本物ではなくて忍川先輩が創ったダミーなのですよ」

 証拠を見せたまえよ証拠を、と取り乱しながら忍川は椅子から立ちあがった。

「僕がダミーを創った? 詩織が作戦を考えた? そう言える証拠はなんだというんだい。全部きみの作り話だって可能性だってあるじゃないか」

 忍川は机を迂回うかいして築垣の正面に移動し、そうじゃないとどうして言えるんだと問い詰めた。

 顔を築垣に近づける。鼻の先が触れそうなほどに近い。

 しかし築垣は一歩も退かなかった。顔を背けることもしない。忍川の目は髪に隠れているから俺からは見えなかったが、おそらく築垣は、忍川の視線を真っ向から受け止めている。

「証拠はありますよ」

 緊迫した沈黙を、テノールが震わせた。話してみたまえと忍川は顔を震わせる。その顔が赤い。拳も震えていた。事実でもないことをでっち上げられて怒っているのか、事実に迫られて焦っているのか、俺には見分けがつかない。

 証拠があるならそれを話せよと忍川が静かにえた。

「何がダミーだ。僕はそんな物作ってないし、当然橋本さんと口裏を合わせているわけでもない」

「そうでしょうね。口裏合わせなんてしてないと、僕も思いますよ。ただ、ダミーではないとすると大きな矛盾が生まれてしまうのです」

「矛盾?」

「そうです。もしダミーを創っていなくて犯行時間が一時間目の最中に起きたなら、んですよ」

「僕が? 詳細を?」

 どういうことだ、と忍川は一歩さがる。反対に築垣は前へ出た。

「忍川先輩は、さっきも言った通り、疑惑の十分をどん詰まりで過ごしていました。そして休み時間が終わりに近づいたころ、トイレから出てきた猿渡先生に見つかっています。そして怒られましたね。先生たちの似顔絵を描いたことについて」

 俺は猿渡の演説を思い出した。


 もし不満があるのなら直接相手にぶつけるべきだ――。

 裏でこそこそこんなものを描くのは陰口と同じ――。

 芸術は権力に対抗するために使われることもある――。

 私もそれを否定する気はない――。

 が、私は芸術家である前に教師だ――。

 教師として、問題と向き合うためにはこんな搦手からめてを使うべきではない――。


 いつも偉そうにしてばかりいる猿渡が、珍しく真っ当な熱弁を振るったのでまだ覚えている。

 あ、ああ、と忍川は溜息とも返事ともつかない曖昧な声を漏らした。

「まあ、たしかに猿渡には叱られたよ」

 さっきまでの喰ってかかるような勢いは削がれていた。

 それがどうしたと忍川は訊く。問い詰めると言うより、純粋に質問しているようだった。

「忍川先輩は叱られてから、職員室へ連行されています。これは瀧本さんたちも見ています」

 築垣の言うことは正しい。連行されていく姿を見たからこそ、瀧本はプレゼントを渡すことが出来ないと言って嘆いたのだ。

「職員室へ連れて行かれてから、忍川先輩はずっと猿渡先生から説教をされていました。二時間目が終わるまでずっと、です。さらに二時間目以降は、他の先生の似顔絵を描いていたそうですね」

 体育の鬼瓦先生はずいぶん感銘かんめいを受けていたそうですよ、と築垣は余談を挟み、さらに続けた。

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