14・血痕
1
椅子が壊れていた。
その座面が、砕けていた。と言っても、座面全体が砕けているわけではない。座ったときに、右
その椅子があったのは、最前列の席だった。
「教壇がずれていたんですね」
黒板の方を眺めながら、築垣が呟いた。
その通りだ。昼休み、猿渡から美術室の片付けを言いつけられた俺と林田は、半開きだった窓を閉め、椅子を机の下に仕舞い、絵の具の汚れを落とし、水滴を拭き、そして――。
ずれていた教壇を、きっちり壁に沿うように直したのだ。
もっとも、足を怪我している俺にできたのは窓を閉めることくらいで、ほとんどは林田がこなしたのだが。
「教壇が、どうかしたのか」
「いえ、これを持ち上げるのは骨でしょうね」
築垣は腰を
腰を落として
「重い」
持ち上がることは持ち上がったが、ほんの数ミリ浮いたところで築垣は手を離してしまった。がたん、と大きな音を立てて教壇が床に落ちる。
築垣の白い頬が、ほんのりと桃色に染まっていた。息も切れている。
「どうしたんだよ」
「いえ、隠すならここしかないと思いまして」
「隠す? 何をだよ」
「
俺の質問には答えず、築垣はじっと教壇を眺め降ろしている。やがてその場に四つん這いになったかと思うと、床に頬をつけるようにして、さっき自分が指を入れた
「おや、これは――」
「どうした」
「血――かな」
「血?」
俺も気になって、松葉杖に縋りながらその場に床に座り込んだ。床に手をついて把手に顔を近づける。俺に位置を譲ろうとしたのか、築垣は身を起こした。
そんな築垣と、頬が触れ合った。
「すみません」
咄嗟に頬を離したのは築垣の方だった。
「いや、いいけど」
平静を装ったものの、鼓動が高まり、頬が熱くなっていた。
「それより、血って、どこだ」
誤魔化す意味も込めて、そう尋ねる。
「把手の内側の、上の部分です。かけた指の腹がつくあたりです。上から見たのではわかりまっせん。下から見上げないと」
俺は床に寝そべって取っ手の内側を覗き込んだ。
「ああ、本当だ」
把手の深さはおよそ二十センチといったところか。上下の幅も二十センチほどはある。横幅は四十センチくらいか。二十センチ四方の
その空間の天井部分に――。
指紋があった。
赤い。
慥かに血のようだった。
だが、全体が真っ赤というわけではない。濃い赤色の直線が走っていて、その周りを薄い赤色が囲んでいる。いや、薄いと言うよりも
そこまで確認するのがやっとだった。寝そべって顔を無理矢理上向かせる体勢にはきつい。
俺は上半身を起こした。
「梃子、梃子」
築垣は呟きながら美術室の中を眺め回した。
それからゆっくりと歩き出す。
掃除用具入れの前で止まった。その扉を開ける。
「あ、モップが折れている」
築垣取り出したモップは、その言葉通り真っ二つに折れていた。俺も美術室の掃除を担当したことがあるから知っているが、あのモップは相当古いものだ。塗料が落ちて
「あ、このモップにも血がついている!」
「なあ、何を調べてるんだよ」
俺は再度問うたが、やっぱり築垣は答えなかった。モップを用具入れに戻した築垣は、また美術室の中を歩き回り、今度は教室の後ろにある棚の前で止まった。
壁の横幅いっぱいに設けられたその棚の上には数多くの作品が並んでいる。一般の生徒のものもあれば美術部員の作品もある。完成しているものも未完成のものも、絵画も彫刻もある。
その中に、フラミンゴを描いた油絵があった。
その油絵の前で築垣は足を止めた。
フラミンゴが、どうしたというのだろう。
黒い背景に浮かび上がるフラミンゴが、片足を折り曲げて
もっとも美術の何たるかを俺は知らないから、これこそが芸術だと言われたなら言葉を返すことはできないのだけれど。
もしくは、単純にまだ制作途中なのかもしれない。
どちらにしても、築垣がこの絵を凝視する理由はわからない。
「まだ乾ききってない」
小声で、築垣はそう言った。そして急に――。
「謎はすべて解けました」
そう宣言した。
人差し指を立てた手をまっすぐ上に伸ばし、まだ床に座り込んでいる俺に大股で歩み寄ってくる。そして俺の目の前で止まると、中腰になって俺の顔を覗き込み、
「事件を解決しましょう」
と言った。
「林田先輩と忍川先輩、それから林田先輩にも来てもらいましょう」
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