11・逆転

 猿渡は美術室の教壇近くの席に座った。

「きみたちも座りなさい」

 二人用の長机を挟んだ向かいにある椅子に手を差し伸べる。俺と林田は、すすめられるままに椅子にかけた。

「林田が絵を破ったって、どういうことですか」

 座るなり、俺は訊いた。

「あそこに飾ってあった絵のことはきみたちも知っているね」

 猿渡は黒板の横あたりの壁を人差し指で示す。

「知ってるぜ」

 と林田が答える。

 俺も頷いた。あの、真っ黒い背景に、真っ赤な、そして今にもとろけそうな満月だけが描かれた幻想的な油絵は、忘れようにも忘れられない。

 ――だから、か。

 美術室に入ったときにその絵がなかったことに疑問を抱いたが、その理由が図らずも解明した。

 破られたから、なかったのだ。

 ただ、誰に破られたのかは知らない。猿渡は林田が犯人だと思っているのだろうが、果たしてそれが真実なのかどうか知れたものではない。

「その犯人が林田だと、なぜ言い切れるんですか」

 率先してきいた。

 猿渡は机に肘をつき、両手の指を絡ませて鼻から下を隠す。そして、順を追って話そうと言った。

 せっかく冤罪を晴らした林田が、また別の冤罪をかけられたのではたまらない。友人とはいえ他人である俺でもそう思う。林田だって――冤罪の意味がわからないとしても――犯人扱いされるのは厭だろう。

 俺は耳をそばだてた。

「まず、私が学校へ到着したのは、朝の七時半ごろだよ」

 学校生活の一日は朝読書から始まる。その朝読書の開始時間が八時だ。だから生徒の生活感覚で言えば、まだ運動部が朝練に励んでいる時間帯だ。

 ずいぶん早く来たんですねと言うと、完成させなければならない絵があるからねと猿渡は答えた。

「その制作に取り掛かりたかったんだよ。幸いなことに一時間目と二時間目には授業が入っていなかったから、早朝から取り組めば、かなりまとまった時間を製作にてられるしね」

「その絵ってどこにあるんですか」

「美術準備室だよ。制作中の絵は自宅にもあってね、あちこちで取り組んでいるんだよ」

 そういえば個展をひかえていると言っていたか。

 朝読書の前から早々に美術準備室へ籠もった猿渡は、しばらく絵の製作に没頭していたそうだ。

 ちなみに美術準備室は、美術室の奥にある。美術室と美術準備室は、三方を庭に囲まれていて、残りの一方だけが廊下につながっている。つまり、美術室には廊下からしか入れないし、美術準備室には美術室を通らないと出入りできないということだ。もちろんベランダを通って窓から入ることもできるが、あえてそうする必要はない。それは面倒臭いだけだ。普通なら。

「だが、途中でトイレに行きたくなってね、準備室を出たんだ」

「何時ごろですか」

「トイレに行ってからすぐにチャイムが鳴ったからねえ、朝の会が終わる少し前くらいだと思うよ」

「ちなみに、どこのトイレですか」

「どこってきみ、美術室からいちばん近いトイレだよ」

「つまり、にあるトイレですね」

「どん詰まりか。きみたちはあそこをそう呼んでいるらしいね。だとしたらそうだ。そのどん詰まりにあるトイレだよ」

 美術室から歩いて一分もかからない。トイレに行ってから朝の会が終わるチャイムが鳴ったのなら、ほぼ同時と考えていいだろう。

 朝の会が終わる時間は――八時二十五分だ。

「トイレには十分ほど入っていた」

 つまり、休み時間のほとんどをトイレで過ごしたということだ。

「ところが、だ」

 猿渡はなぜかため息をき、

「トイレを出たところで問題が起きた」

 と言った。いや起きたというより出会ったというべきかなと修正する。

「問題? どんな?」

「トイレを出たところに――忍川がいたんだよ」

 なぜか憂鬱そうに、猿渡は息をいた。

「忍川が?」

 ひょろひょろした体つきで、目を覆うほど伸びた癖っ毛の男子の姿が脳裏をよぎる。忍川もまた、美術部員だ。

 そうだよ忍川だよと忌々いまいましげに猿渡は言った。忍川がなんで問題なんですかと俺は訊く。

「授業が始まるのにそんなところに突っ立っていることも問題だったんだが、それよりも問題だったのは、彼が落描きをしていたことなんだよ」

「落描き?」

「そう、落描きだ。私の似顔絵を持っていたんだ」

 これだよと猿渡は言って、ズボンのポケットから丸まった紙を取り出した。

「見てみたまえ」

 どうやらノートのページを切り取ったものであるらしい。それを手に取って広げる。机に押し付けるようにしてしわを伸ばす。

 そして林田と二人でその紙を覗き込んだ。

「そっくりじゃねえか」

 林田が吹き出した。俺も吹き出しそうになって、寸前でこらえた。

 たしかに、そっくりだ。

 七三に分けられた髪もへの字に曲がった口も、そのまんまだ。鉛筆で走り描きされただけのような簡単な絵だが、特徴はよくとらえている。しかも不機嫌を全面に押し出したようにデフォルメされているところが可笑おかしい。

 何が面白いのかねと猿渡が怒鳴った。すみませんと林田は首をすくめるも、申し訳無さそうにしているようには微塵も思えなかった。普段もそうだが、今はいっそうに申し訳なさなど感じていなさそうだ。

「それで、この絵の何が問題なんですか」

 俺が訊くと、問題だとは思わないのかねと逆に問い質された。

 問題とは、思わない。素直にそう告げると、これだからきみたちは駄目なんだと猿渡はため息をいた。

「この絵は不満の現れ方のひとつだろう。もし不満があるのなら直接相手にぶつけるべきだ。そうせずに、裏でこそこそこんなものを描くのは、言ってみれば本人がいないところで陰口を叩いているのと同じで、何も善くならない。たしかに芸術は権力に対抗するために使われることもあるし、私もそれを否定する気はないが、私は芸術家である前に教師だ。教師として、問題と向き合うためにはこんな搦手からめてを使うべきではないと教えたいといつも思っている。ましてやここは日本だ。言論統制がされているような国ならいざ知らず、そうでないなら、なおさら問題は直接的に言葉に表すべきじゃないのかね」

 どうだねと問われて、すぐに返事ができなかった。反論が思いつかなかったからではない。

 だ。

 まさか猿渡が共感できることを言うとは思わなかった。

「その通りかもな」

 隣では林田が腕組みをして顔を縦に振っている。

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