8・罪のゆくえ

 絵がない。

 美術室に入って、まずそう思った。

 黒板の隣に、猿渡が描いたという絵画が飾ってあるのだが、それがなかったのだ。真っ黒い背景に、今にもとろけそうな真っ赤な満月だけが描かれた幻想的な油絵で、生徒の多くはその絵に魅了されていた。美術にはほとんど関心のない俺も、その絵には見蕩みとれたほどだ。

 その絵が、なかったのだ。

 どうしたのだろう、と不思議に思った。

 ほかのみんなもそれを不審に思ったのか、絵が掛かっていた場所に目をやっている。

 しかし築垣だけがそんなことは気にもとめない様子で言った。

「位置関係から説明して戴けませんか」

 一斉に築垣を見る。

「お願いします、林田先輩」

「俺?」

 林田は自分の鼻先を人差し指で触る。

「林田先輩が詩織先輩とここへ来てから、どこにいたのか、その位置関係を知りたいんです。なるべく、詳しく」

「いいけど、なんで今さら? もう、そういうのは良くないか?」

 そうだよと詩織も林田に同調する。

「あとは、私がいなくなってからの五分間の説明をすればいいだけのことでしょ? 位置関係なんて、もうどうでもいいんじゃん」

 詩織は息をいた。面倒臭いのだろうか。それとも、嫌悪感がこぼれてしまっているのだろうか。あるいは――。

「念には念を入れたいだけです」

 快活なテノールで築垣が告げた。

「まあ、まだ校長先生たちが来てないしな」

 いいぜと林田が引き受けた。その横顔を、詩織が不満げに見つめている。

 林田の言う通り、まだ鴨志田が来ていない。林田のアリバイを証明するために証言を求める予定の、尾花と瀧本を呼びに行っている最中なのだ。どうせ時間は余るのだし、それなら位置関係の説明をするくらいはいいかと俺も思った。

「そうだなあ」

 林田は一度天井を見上げる。それを、俺と築垣と詩織と大松は、美術室の真ん中あたりから眺めている。

「あのとき、俺はここにひとりで座ってたんだよ」

 林田は手近にあった椅子をひいて窓際に置いた。座れば左手に窓が見える。

「待ってください」

 築垣が止めた。林田に歩み寄る。

座っていたんですか」

 その質問に、林田があごを引いて目を見開いた。一人の時間があれば犯行が可能になる可能性が生まれてしまう――そのとこに、さすがの林田も気づいたのだろう。

「ひとりっつっても、ほんの一分くらいだけどな」

 そう早口で弁明した。

 ちなみに、と築垣は林田の弁明を突く。

「その一分ほどの間、詩織さんはどちらに?」

「私はトイレに行ってたの」

 透かさず詩織が答えた。

「トイレに、ですか」

 築垣は心持ち厳しめの視線を詩織に向ける。そうだよと詩織は答えた。

「ほら、『どん詰まり』にあるトイレ。これからせっかく二人っきりの時間を過ごすのに、トイレを気にしてなんていたくないでしょ」

 なるほどそうですねえと築垣は頷き、話を進める。

「それで林田先輩。そこに座っていた後のことを聞かせてくれませんか」

 いいぜと林田は応じる。

「俺はここに座ってたんだよ。後から詩織が来て、そっちにある椅子を持ってきて、俺と向かい合って座ったんだ」

 林田はもう一脚、椅子を引き寄せて、さっきの椅子と向かい合わせに置いた。

「汚い椅子ですね」

 築垣が眉をひそめる。

 確かに――汚かった。

 美術室の椅子は、教室にある椅子とは違う。背凭せもたれと座面が、湾曲わんきょくした一枚の木板でできていてペンキで白く塗られているのだが――そのペンキの塗り方が、雑だったのだ。

 固まったペンキが平らではない。凹凸がある。濃淡もまばらだ。

 ――ほかの椅子はそうでもないのに。

「それで俺と詩織は向き合って――」

 愛を語り合ったのだと林田は言って、照れ隠しなのか後頭部をく。

「そのうちにさ、さっきも話した通り、目を瞑れって言われて、目を瞑ったんだよ。そうしたら例の内緒話が聞こえてきたんだよ。犬の彫刻を忍川に渡すとか渡さないとかっていう話な」

「その後で目を開けたら、すでに詩織先輩はいなかった――ということですね」

「そういうこと」

「間違いないですか、詩織先輩」

「ないね」

 軽く答えて、詩織はほっと息をいた――ように見えた。

「それで、内緒話というのはどこから聞こえたんですか?」

 築垣が問う。

「ああ、それな。向こうの廊下からだよ」

 林田は窓の外を指さした。

 窓からは中庭が見える。中庭は、美術室と廊下が描くコの字型に囲まている。

 林田が指さしているのは、ここから見て対面にあたる廊下だった。

「俺もそのときは目を瞑っていたからさ、もちろん正確にはわからないけど、ほら、中庭には隠れるところなんてないだろ。だから、あっちの廊下から聞こえてきたと思うんだよな」

 もっともな言い分だった。中庭にあるものと言えばベランダ沿いに並んだ花壇と、二台のベンチ、それから、真ん中に生えている杉の木くらいのものだ。

 もちろんベンチや杉の陰に、隠れようと思えば隠れられるが、今日は朝から気温が高い。秘密のプレゼントの話をするために、わざわざ日光の直射する中庭に隠れたとは考えにくい。

 それでも中庭の方向から声が聞こえてきたというのなら、林田の言う通り、声の主――つまり瀧本と尾花――は、中庭ではなく、中庭の向こうに見える廊下に隠れていたに違いない。あの廊下は突き当りにある倉庫に行くくらいしか用がないから、人通りも少ないし、内緒話をするには適していると言える。床に座り込んでいれば壁が遮蔽物しゃへいぶつとなって、たとえ美術室にいた林田が目を開けていたとしても姿を見られることはなかっただろう。


 やがて鴨志田が、瀧本と尾花の二人を連れてやって来た。


 二人ははじめ、出入り口のあたりに立ったまま怯えていたが、

「余計なことに呼び出しちゃってごめんね」

 と詩織が微笑ほほえみかけると、強張こわばばらせていた肩から力を抜いたようだった。

 さっそく築垣がきいた。

「瀧本さん――だったね?」

 色白の方へ体の正面を向ける。はい、と瀧本は答えた。

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