4・辻推理

 廊下は賑わっていた。

 授業と授業の間の休み時間は十分しかないが、二時間目のあとの休み時間は特別に三十分ある。だから図書室へ行く生徒もいるし体育館へ行く生徒もいる。グラウンドも使われる。廊下を走り回る生徒だっている。

 そんな活気にあふれた廊下を俺はとぼとぼと進んでいた。捻挫ひとつで、走れないというそれだけで、これほどまでに疎外感そがいかんを感じることになるとは、怪我をするまでは思ってもいなかった。

 先に駆け出していった築垣は、俺が早く歩けないことを思い出したのか戻ってきて、俺に歩調を合わせて並んで歩いていた。


「言い訳はよしたまえ」


 急に背後からねっとりとした声が聞こえた。聞いただけで声の主が誰なのか分かった。

 ――猿渡さるわたりだ。

 猿渡徹さるわたりとおる

 四十歳くらいの美術教師だ。アドルフ・ヒトラーをややふとらせたような容貌ようぼうをしている。髪はいつもきっちりと七三に分けて固められているし、背筋も足もいつもまっすぐに伸びている。シャツにもズボンにも皺ひとつないし、ネクタイは夏でも首許まで締めている。いつもそうだ。

 神経質なのだろう。

 本人が神経質なだけなら構わないが、猿渡はそれを生徒にまで押し付けてくる。猿渡とはそういう男だ。

 面倒だ。

 身だしなみが乱れていると注意された生徒は何人いることか。俺もその一人だ。


「言い訳なんかじゃねえサ。真実ヨ」


 威勢の良いべらんめえ調の声が言い返した。

 ――喧嘩か。

 学校の職員同士が。

 危険を感じて振り向く。

 案の定、猿渡の姿があった。

 よれたシャツに皺だらけのズボンを履いている。乱れた髪が額にかかっていて、肌が白かった。築垣も色白ではあるが、白さの質が違う。築垣が軽そうで透明感があるのに対して、猿渡は重そうで詰まっている。築垣が雪なら、猿渡は餅だ。

 それともう一人、作業服姿の男の姿があった。

 体つきは小さいものの、袖から出た二の腕は引き締まっている。顔にも余計な肉がついていない。

 用務員の橋本舜はしもとしゅんだ。

 二人は、廊下が十字に交わったところで正面から向き合っていた。廊下を歩いていた生徒たちが、足を止めて興味深そうにその様子をうかがっている。

「水沢先輩、あの二人は誰ですか」

 築垣が問う。入学して半年ほどしか経っていない築垣はまだ知らないのだろう。いや美術の授業は受けているはいるはずだし、橋本も学校中を歩き回って修繕したり掃除したりしているから会ってはいるはずだから、まだ覚えきれていないのかもしれない。

 俺は手短に二人の情報を伝えた。それから半分陰口を叩くつもりで猿渡の近況を付け加えた。

「あの猿渡って教師はたいして評価されていないにも関わらず、個展を開くとか言って、最近はずっと絵を描くのに没頭しているらしいんだよ。授業の合間はもちろん、休み時間も、ときには授業中にも自分の絵の製作に没頭している。家では寝る時間まで削って描いているらしい」

「そんなにたくさん絵を描くのですね」

 違う違う、と俺は手のひらを横に振った。

「ひとつの絵に対して異常にこだわるから、数は少ないのに完成するのに時間がかかるらしいよ」

 猿渡が色白なのはそのせいだろう。日光に当たっていないのだ。

 猿渡は緩んでいたネクタイを締めつつ、鼻から息を抜いたようだった。

「言い訳たァなんだい。俺はきっちり仕事をこなしたぜ」

 橋本が楯突たてついた。一度下を向いてから一歩詰め寄り、あらためて猿渡の顔をにらみつける。

 橋本は二十代だと聞いている。俺も含めて生徒は、年齢が近いからか親近感を覚えて話しかけることが多い。そのたびに橋本は愛想よく返事をする。ときには親身になって生徒の相談に乗ってくれることもある。だから学校に嫌気がさすとほとんどの生徒は保健室か用務員室へ行く。それほど、橋本は陽気でいて親切なのだ。その親切な橋本が――。

 今は怒っている。猿渡を睨みあげる視線には闘気さえ感じられる。

 しかし猿渡は済まし顔だ。腰の後ろで両手を組んで、胸を反らせて橋本を見下ろしている。

「私はね橋本くん。美術室の椅子のペンキを塗り直してくれと頼んだだけだ。別に芸術作品をつくってくれと頼んだわけではないのだよ」

 ンなこた分かってんでえ、と橋本はさらに間を詰めた。

「だからその通りにしたんじゃねえか。俺は用務員とは言え職人だぜ。丁寧に塗り直したじゃねえか。言ってみりゃあれが俺にとっちゃ芸術品よ」

「用務員風情ふぜいが芸術を語るとは笑わせてくれるものだ」

 猿渡はあごに手を当ててくっくっくと実際にわらった。

 ――猿渡め。

 仕事に文句を言うのは百歩譲って許せるとして、という言葉に腹がたった。猿渡はあきらかに、橋本を見下している。しかも用務員だからという理由で。

 遠巻きに見ている他の生徒も、おそらく内心では橋本の肩を持っているだろう。けちばかりつける親爺おやじと、親切なお兄さんとではどちらの味方をしたくなるかは考えるまでもない。

「とにかく、あの椅子の塗り直しを頼みましたよ。あくまで綺麗に塗り直してくださいね。芸術品なんて求めていませんから」

 では、と言い残して、猿渡は一方的に話を打ち切った。それから美術室へ戻ろうとしたのか、こちらに体の正面を向けた。

「やれやれ、これだから芸術家ぶった素人は困る」

 聞えよがしにそう呟いて、やや赤らんだ左の頬を人差し指でく。

「何をォ」

 無視されたかたちとなった橋本が、猿渡の正面に回り込む。行く手を塞がれた猿渡が立ち止まる。その胸許を、橋本が掴み上げる。

 きゃあ、と悲鳴があがった。とうとう暴力沙汰になると悟った生徒たちが叫んだのだ。

 が、そうはならなかった。


「少々お待ちください、猿渡先生」


 俺の隣りにいたはずの築垣が駆け出したかと思うと、橋本を横に突き飛ばして自分がかわりに猿渡と向き合ったのだ。

 止める間もなかった。

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