2・依頼

 今日の俺は日直だった。

 日直の仕事のひとつとして、授業の前に教科担任のところへ行って準備や伝言がないかを聞きに行く、というものがある。面倒臭い仕事だが、そのために日直だけは授業が終わる五分前に授業を抜けてよいという役得やくどくがあるのが嬉しい。

 一時間目が音楽だったので、朝読書――三栖手里みすてり中学校には、朝の八時から十五分間読書をする時間が設けられている――と、その後の朝の会が終わってから、俺は日直の仕事をこなすために音楽室へ向かった。が、音楽の先生からはとくに用はない、みんなそのまま音楽室に来ればいいと言われたので、俺は教室に戻ろうとした。

 音楽室から教室に戻るためには、一度階段を降りなくてはならない。

 事件は、そのときに起きた。

「階段を降りていたら、背中を何者かに押されたんだ」

 それで階段から転落して足に怪我を負ってしまったのだと俺は話した。

 なるほど、と築垣は呟き、それで、と続きを促した。俺は話を続けた。

 落ちたときは怪我をしているとは思わなかった。が、立ち上がろうとした瞬間に足首に激痛が走り、それではじめて捻挫しているのだとわかったのだ。

 歩こうにも歩けないで困っていると、同級生の大貫健太おおぬきけんたがやって来た。音楽の授業に遅れないよう、早めに移動しようと思っていたらしい。

 それで俺は大貫に助けられて、保健室へ向かって包帯を巻いてもらった――というわけだ。

「ふうん」

 なにか腑に落ちないことがあるのか、築垣は頬杖ほおづえをついていない方の頬をぷっくりと膨らませた。視線を横に向ける。時計を見ているのだろうか。俺もつられて時計に目をやった。

 九時三十分。

 二時間目が始まるまであと五分しかない。

「それで、僕への依頼というのは、どんなことです」

 時計から俺へ視線を戻して築垣がきいた。

 もう時間がない。

「親友の冤罪えんざいを晴らしてほしい」

 手短てみじかにそう告げた。

「友人の冤罪とは、どういうことです」

「俺を突き落としたのが本当は誰だったのか、俺自身もよくわからないんだ。見ていなかったから。でも大貫が言うには、犯人は俺の友人の林田だっていうんだ。でも違う。断じてそうじゃない。だから――」

 それを証明してほしいんだと訴えた。

「そういうことですか」

 築垣は椅子から立ちがり、指をほおに添えた。目を閉じて黙り込む。その仕草を見るに、何かを猛烈な速度で考えているようだ。

「受けてくれないか」

 俺も松葉杖を頼りに、やっと立ちあがった。

「その前に訊きたいことがあるのですが」

 引き受けるとも引き受けないとも言わずに、築垣はそう言った。

「どんなことだ」

「なぜ、犯人がその、林田――先輩と呼ぶべきでしょうか。その人ではないと言い切れるのですか?」

「林田は親友だ。そんなことをする奴じゃない」

 関係性は訊いていません、と築垣は俺の返事をばっさり切り捨てた。

「そうではなく、林田先輩ではないという証拠がどこにあるのか訊いているのです」

「証拠? 証拠は――」

 突き落とされたときに見たんだよと俺は答えた。それはおかしいですねと築垣が透かさず異を唱える。

「さっきは犯人は誰なのかわからなかった――と言っていませんでしたか」

「それは顔をよく見ていなかったって意味だよ」

「では、何を見たのです」

「背中さ。逃げていく後ろ姿を見たんだよ」

「背中だけでは見間違いの可能性もあるのではないでしょうか」

「それは、ない」

「自信があるようですね」

「女だったんだ。きみと同じだよ。セーラー服を着てスカートを履いていた。林田は男だ。そんな格好をしているわけがない」

「そういうことですか。では、なぜ林田先輩が犯人扱いされているのですか」

「大貫だよ。俺を保健室まで連れて行ってくれた同級生が、逃げていく林田を見たっていうんだ」

「ではどちらかが嘘を言っていることになりますね。ちなみに水沢先輩は、大貫先輩に反論しなかったのでしょうか」

「反論?」

「ええ、逃げていったのは女だった、林田であるわけがないじゃないか、といったような」

「まあ、したんだけどな」

 人差し指で髪をいじりながら、喧嘩になっちゃったんだよなと俺は言った。

「真っ向からのぶつかり合いだよ。逃げたのは女だった、いや間違いなく林田だった――ってお互いに言い張って、結局喧嘩になってそれからは口も効いてないんだ」

「そうでしたか。なら、なぜ水沢先輩の証言は聞き入れられなくて、大貫先輩の言葉だけが採用されているのでしょう」

「たぶん、性格だろうな」

「と言いますと」

「林田は、悪い奴ではないんだけど、なんていうか間が抜けているというか――」

 よく間違えるし、ときに場違いに明るく振る舞ったりする。おそらく本人は真面目にやっているつもりなのだろうし、思いのままに感情を出しているだけなのだろう。さとせば聞くし、叱れば謝る。素直なのだ。だが素直すぎるあまり、その言動に真実味がない。聞いた、謝ったをしているだけだと――ほとんどの者の目にはうつってしまうようなのだ。

 それがときとして反感を買うのだ。それが気に入らないという生徒はことのほか多い。

 そう言った。なるほどと築垣は頷く。

「つまりこじつけですね。林田先輩をよく思わない人たちが、大貫先輩の証言を元に罪に陥れようとしている」

「そんなところだと思う」

「もうひとつ質問を。水沢先輩が見たという女子の特徴を教えてください」

「特徴は、そうだな。背が高くて髪が短かったよ」

「顔はどうですか」

「顔は見てない。さっきも言っただろ。後ろ姿しか見てないって」

「せめて横顔の特徴だけでも」

「だから見てないってば」

「少しも?」

執拗しつこいな」

「そうですか」

 なら仕方がありませんね、と築垣は残念そうにうつむいた。しかしすぐに顔をあげて、実に奇妙な話ですねと呟いた。口許には不敵な笑みが浮いている。

「面白い。そのご依頼、引き受けましょう。もちろん、本当に犯人が林田先輩だったら、それをひっくり返すことは困難です。無理とは言いませんがかなり難しいでしょう。事実は事実ですから。だから林田先輩が本当に犯人でないなら――という前提で、林田先輩の冤罪を晴らしましょう」

 そういうことでいいでしょうか、と築垣は念をおす。

 事実をひっくり返すことができないことは言われるまでもない。

「もちろん」

 そう答えた。

「では、二時間目の終わりに、音楽室近くの階段の下に来てください。もう少し詳しく事情を知りたいものですから。いいですか?」

「ああ、わかった」

 頷くと同時に、チャイムが鳴った。二時間目の始まりだ。つい話し込んでしまった。松葉杖をついて教室へ戻るには時間がかかる。十分は遅刻するだろう。

「では」

 築垣は快活にそう言い残して、俺より先に視聴覚室から駆け出していった。

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