第35話 破れそうな胸の痛みと新たな壁⑧
財前先生は付き添い用のスツールに腰を下ろした。
「分かりやすく単刀直入に説明すると、今の桃子ちゃんの心臓の状態なら、性行為自体は可能よ。ただ行為の途中で心不全が起きる可能性もある。不整脈はいつ起こってもおかしくないから、その点はちゃんと理解してて貰いたい」
「……はい」
「それから、将来、妊娠を希望する場合、出産までのリスクが高くなる。妊娠自体は問題なくても、妊娠を維持する方が何倍も大変だと思う」
「……」
「今は医学が進んでいいお薬も出てるから、胎児と母体の両方の状態を維持しつつ、できるだけ心臓の負担が少ないタイミングでの出産が望ましい」
「じゃあ、出産も可能なんですか?」
「無理だとは言わないけれど、かなりのリスクがあるからね」
「……はい」
「妊娠すると、今より血流量が増えるから、心臓に負担がかかるの。それを維持しつつ、胎児へしっかりと栄養を届けなければ胎児の成長は困難になる」
「……」
「出産方法だけど、自然分娩が無理だとは言わないけど、できれば帝王切開が望ましい。いきむことで胎児にも心臓にも負担がかかるから、無事に出産を終えるには、帝王切開の方がリスクが何倍も少ない」
「……分かりました」
先生の説明はいつ聞いても分かりやすい。
「彼のこと、好きなのね」
「……はい」
「どういう男の子なの?」
「幼馴染の子で、空手をしてます」
「あっ、もしかして、今日空手の試合を観てって、その彼の試合だったの?」
「……はい。試合中に反則技貰って、倒れてしまって……」
「それじゃあ、驚いても仕方ないか」
診察の際に、不調になった原因を聞かれたから、『空手の試合を観て』と伝えたのだ。
「先生がいい事、教えてあげる」
「はい?」
財前先生はベッドに横たわる私に、そっと耳打ちしてくれた。
**
「桃子っ」
「え、何でいるの?」
「部活終わって家に行ったら、まだ病院だって聞いたから」
「君が彼氏くんかな?」
「……はい」
「初めまして、桃子ちゃんの主治医の財前です。桃子ちゃんから君のことを今聞いてたところなの」
「え、俺の?」
「今日、試合だったんだって?」
「あぁはい、練習試合ですけど。桃子の具合大丈夫なんですか?」
「えぇ、大丈夫よ」
「……よかったぁ~~」
「そりゃあ、心配したわよね」
先生もビックリするほど大きな安堵の溜息を吐いた匠刀。
点滴が刺さる手がそっと握られる。
「お母さんも戻って来たことだから、私は医局に戻るわね。桃子ちゃん、また次の検診の時に」
「はい」
「お大事にね」
「先生、ありがとうございました」
「おばさん、俺も」
「もう帰るの?」
「桃子の顔を見れたんで」
「……そう?」
「桃子、また夜に電話する」
「ん」
父親への電話を終え戻って来た母親が、財前先生に御礼を言う。
私はというと、匠刀の手をぎゅっと握り返して、『もう大丈夫だよ』と伝える。
すると、頭を一撫でされた。
ジョギングの時のように颯爽とその場を後にする匠刀。
そんな彼の後ろ姿をカーテンの隙間から見つめていると。
医局へと戻る財前先生に声をかけたようで、入口ドア付近で2人で話しているのが見える。
小さく何度か頷いた先生が、チラッとこちらに一瞬視線を寄こした。
そして、匠刀と先生は救急外来室の外へと行ってしまった。
きっと匠刀のことだから、安心出来ずに質問でもしてるのだろう。
それか、お礼でも言っているのか。
本当に私のことになると、周りが極端に見えなくなるんだから。
「桃子、点滴が終わったら帰っていいって」
「うん」
桃子は残り僅かな点滴を見上げ、漸くホッと安堵した。
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