第6章
第21話 折り畳み傘と美人な彼女①
8月上旬のとある日の、午前8時少し前。
既に気温は軽く30度超え。
というより、夜の間も30度を下回らないような寝苦しい日が続いている。
『3分後に着くから、玄関に座って待っとけ』
今朝も理不尽すぎるメールが送られて来た。
あの誕生日デートで付き合うことになった桃子と匠刀。
あの日以来、毎朝欠かさずやって来る……あいつが。
それも、必ず拒否権なしのメールを送り付けてくる。
「ハァッ……ハァッ…ッ」
「おはよ」
指示通り、玄関ポーチに座って待っていると、住宅街を軽快に走って来た。
……付き合って2週間目になる彼氏・匠刀が。
部活の稽古が9時から始まるらしくて、自宅からジョギングで学校まで通っているのだとか。
蒸し暑い中、歩くのだって大変なのに。
通過点である我が家に必ず寄って行くのだ。
「ん」
「……ホントに、毎日毎日朝から飽きないね」
「お前な、文句たれずに彼氏の胸に飛び込むとかできねーのかよっ」
「そういうの、私に求める方が間違ってるから」
「彼女らしいこと、全然してくれねーじゃん」
「あーはいはい、わかったわかった」
うちの玄関先で、汗を滲ませた匠刀が両手を広げて訴えて来る。
ご近所さんの目だってあるし、自宅が鍼灸院だから、ほぼいつだって両親がいるというのに。
ほんのちょっぴり汗臭い匠刀に抱きつく。
こうでもしなきゃ、後々もっと面倒だからね。
「シャンプー替えただろ」
「……キモいよ」
「前のやつの方が好き」
「あんたの好みは聞いてない」
「今のが使い終わったら、前のに戻せよな」
「あーはいはい、わかったわかった」
何だろう。
この不毛なやり取り。
毎朝こうしてハグされなければ一日が始まらないというのは、拷問だ。
「ちゅーダメ?」
「ダメ」
「ちゅっでも?」
「ダメ」
「ケチすぎんぞ」
「安売りしちゃダメだって言ったのは誰よ」
「チッ」
「舌打ちしない!ほら、遅れるよ?」
「……ん。ちゃんと連絡しろよ」
唇にキスするのは我慢しても、ちゃっかりおでこにちゅーしてゆく、匠刀。
そんな彼が、颯爽と駆けてゆく背中を見送った。
部活は9時からだけど、1年生は道場と部室の掃除や準備があるらしく。
匠刀はそれも考慮して8時前に自宅を出発する。
匠刀が軽快に走っている姿を見て『カッコいいなぁ』とは思うけど、悔しくならないはずがない。
私だってあんな風に、全力疾走じゃなくてもいいから走ってみたい。
ウォーキングでも早歩きでもなく、ジョギングを。
**
その日の午前9時少し前。
「桃子、具合が悪くなったらすぐに連絡するのよ?」
「うん」
「塾の先生にも話してあるから、気分が悪くなったら休ませて貰うんだぞ」
「分かってるって」
玄関で心配そうな表情を浮かべる両親。
今日はお昼を挟んでの授業コース(塾)にしていて、帰宅するのは夕方以降。
本当は毎日通えるし、半日だけのコースもある。
体の状態を踏まえて、親と熟慮した結果だ。
「いってきます」
「気を付けてね」
「いってらっしゃい」
鍼灸院の施術開始前に、両親が玄関で見送りをしてくれた。
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