第16話 第一級聖騎士の正体は
(聞かれていた!?)
思わずこれぼれた独り言を悔いてしまう。
部屋にはドアがあるが、鍵は付いていない。ルシウスはノックせずに、こっそりと入ってきたのだろう。
(なんのために……?)
聖騎士に叙せられる時点で尋常ではない。その上、若くして第1級まで上り詰めたのだ。この英才の底知れなさはヴィクターも警戒している。
金と権威に尻尾振る、こちら側の人間なのかどうか、まだ把握できていない。
(油断はならない……)
アリシアの讃美歌が響く中、ヴィクターはにこりとした笑顔を浮かべた。
「たいした意味はありませんよ。彼女は劣等生でしてね……その彼女が立派に勤めを果たしているので、少々驚いただけです」
「彼女が劣等生? 教師殿は見る目がありませんな?」
嘲笑の粒子を漂わせたその言葉に、ヴィクターは苛立ちを覚える。
だが、実際に『今の彼女』の力はその言葉に値するのも事実だ。おまけに、光り輝ける第一級聖騎士に喧嘩を売るのは得策ではない。
「ははぁ、お恥ずかしい限りです。まだまだ研鑽が必要ですな」
へりくだった笑みを浮かべる。
「それで、私に何かご用でしょうか? ノックもなしに入室とは、いささか驚きを隠せませんが」
「ノックは、ノックをする価値のある相手にするものだ」
「――!?」
さすがに額に血管が浮き上がるほどの怒気を覚える。だが、それをヴィクターは飲み込む。
「……どういう意味ですかな?」
「ふふふ……ほら、アリシアの次の試験が始まるよ?」
解せない態度に不快感を覚えながら、ヴィクターは舞台に目をやる。
体調を崩した犬にアリシアが手を当てていた。
聖なる力が発動する。
すると、犬の目がかっと開き、すくっと立ち上がった。元気に吠えると、くるくると走り出す。そして、アリシアに甘えたように頭を擦り付けた。
「な、何いいいいいいいいい!?」
ルシウスの存在すら忘れて、思わずヴィクターは叫んでしまった。
不調を癒すどころか、活力すら与えている。讃美歌と同じく、間違いなくエレノアとは次元の異なる領域の魔法だ。
「はっはっはっは、あなたの教え子だが、あれが劣等生なのか?」
「……い、いえ、それは……」
「アリシアの魔法が予想以上というのに驚いているのか? それとも、彼女が魔法を使えることに驚いているのか? 使えないはずの魔法を使っていることに?」
言葉が終わると同時、ルシウスが何かをヴィクターに投げつける。反応できないヴィクターの胸にあたり、それはポトリと床に落ちた。
それは、聖女の正装である白い手袋だ。
「――!?」
これが、ここにあり、ルシウスが持ってきた、ということは?
「アリシアに用意された正装の手袋だ。これに魔法阻害の繊維を織り込んでいるな?」
ヴィクターの心が絶対零度のような息吹を感じた。溢れそうになる動揺を押し殺す。
(落ち着け。落ち着くのだ! ここが勝負どころだ!)
ルシウスが何かを掴んでいるのは間違いない。だが、致命的な証拠さえなければいいのだ。言い逃れてしまえばいい。アリシアの活躍は想定外だったが、保険としてかけていた審判団の買収が役に立つ。エレノアの優勝は揺らがない。ここさえ凌げば、輝ける未来は変わらない!
「おっしゃっている意味がわかりません。どうして私だと?」
「この服を用意するのはお前だ。お前以外の誰ができる?」
「なるほど、確かにそれは……私の落ち度ですな。管理が甘かった。アリシアという少女は教室で孤立していましてな、何者かが嫌がらせとして入れ替えたのでしょう……」
「生徒が孤立していじめを受けている、と。お前の教師としての質の悪さが出ているな?」
嘲笑めいた言葉に怒りを覚えるが、それで我慢する。程度の低い若者が仕掛ける安い挑発だ。教会という巨大組織を生き抜いてきた海千山千のヴィクターが慌てるほどではない。
「耳が痛む指摘です」
「違うだろ?」
「……は?」
「お前がそう仕向けたんだ。エレノアを女王とする教室を作り、アリシアという奴隷を作る。そうなる教室を作ったのさ」
(この男、どこまで知っている……?)
聖女見習いの教室の出来事など知るはずもないと思っていたが。
(ただの若造とどこか甘く見ていたが、どうやら、そうでもない。最大の警戒心で臨まなければ……!)
そのとき、ホールの明かりが落ちた。
最後の試験が始まったのだ。
闇の向こう側から、ルシウスの声が届く。
「残念だが、お前が応援するエレノアの優勝はなくなったぞ」
追い詰められた心に、少しだけ優越感が蘇る。残念ながら、ヴィクターには審査員買収という保険がある。この男はそこまでたどり着いていない。そして、それがある限り、ヴィクターの勝利は揺らがない。
「……どうでしょうな?」
言葉に込められた勝ち誇った響きを、ルシウスは聞き逃さなかった。そして、それだけでルシウスの明敏な思考はその原因を突き止めた。
「……その余裕……そうか、審判団も買収済みか……?」
「――!?」
この男は危険だ!
明かりの落ちた薄暗がりの中、ヴィクターは一瞬で体が汗をかく。まさか、あの一言でそこまで頭を回すとは!?
だが、慌てる必要はない。
ただの推測でしかないのだ。そんなもので状況は覆らない。覆せない。全てを否定し、うやむやに時間を稼げばいい。疑惑の勝利になるのは残念だが、エレノアは聖女候補への当選は確定する。
「聖騎士殿。あなたの立場は理解しますが、言いがかりはやめていただきたい。全てあなたの妄想でしょう? 証拠はありませんよ」
「証拠? ああ、証拠か」
くくく、と闇の向こう側でルシウスが笑う。
「そんなもの、必要ないのだよ、ヴィクター教師」
その瞬間――
「がはっ!?」
急にヴィクターの全身が締め上げられた。何かはわからない。冷たくて不気味な、ぬめりとした何か。身体中がぎゅうぎゅうと圧力を感じる。首筋に何かが絡みつく。
そのまま体が釣り上がった。床から離れた足をジタバタと動かした。
「え、えぐ、あ……!?」
首を絞めてくる細い何かを引き剥がそうと指をかけるが、無意味だ。
何が起こっているのかヴィクターには理解できなかった。会話の流れからして、ルシウスだろうか。だが、ルシウスらしき人影はドアの近くに立ったままで距離がある。
(何が!? 何が起こっている!?)
その瞬間、光が復活した。
アリシアの生み出した聖なる輝きがホールを満たしたのだ。エレノアは蛍のように光を飛ばして幻想的な演出をしたが、アリシアは容赦なく暗闇に沈んだ部屋の全てを明るく輝かせたのだ。
闇が消えて、ヴィクターは何が起こっているかを知った。
――部屋中に闇が、蠢いていた。
生物めいたぬめりを持つ闇の触手が、ギチギチと嫌な音を立てて部屋中を這いずっている。その分量は凄まじく、部屋のほとんどが漆黒に染まるほどだ。
その触手がヴィクターを絡みとり、容赦なく締め上げている。
(こ、これは、な、なんだ――!?)
絶望的な光景にヴィクターの思考は吹き飛んだ。何かを口にしたいが、喉を締め上げられて音にならず、呻き声とともに唾液を垂らすだけ。
そして、理解を大きく超えている点は――
闇の触手の起点がルシウスであることだ。光り輝ける第一級聖騎士は今、闇そのものをまとっている。
「証拠など、どうでもいいのだよ、ヴィクター教師。私は、私の前に立ち塞がるものを殺すだけだ。そこに許可も正義も求めるつもりはない。間違えた人間を殺すこともあるかもな? だが、それを恐れることも謝ることもない。私に邪魔だと思われた時点で、それはその人物の罪なのだから。死ぬには十分すぎる理由だ」
この男は間違いなく狂っている!
恐怖に突き動かされながら、ヴィクターは締め上げられた喉を開き、潰れても構わないという勢いで叫んだ。
「おごああああ! ぐおおおおおお!」
「助けを呼んでいるのか? 無駄だよ。闇の力の本質とは、光すらも逃さないこと――音ごときが逃げられると思ったか? この部屋の音は決して外部に漏れない」
ルシウスがゆっくりとした足取りで近づいてくる。口元に殺意の笑みを浮かべて。
「審判団を買収しているのなら、都合がいい。お前を殺すだけで、彼らに対するメッセージになるだろう。全ては正しく処理される」
ルシウスの右手に闇が集まり、剣の形状へと固まっていく。その切先がヴィクターの胸に当てられる。
ぞっとした冷たさが肌から伝わってくる。闇の冷たさというより、それは死を思わせる温度。
「もがああああ、うごおおおおあああああ!」
より一層、足をジタバタとさせる。
(死にたくない! 死にたくない! 死にたくない! こんなところで、どうして私が死ななければならいのだ!?)
ヴィクターは間違えていないはずだった。人の世のルールを使い、組織のルールを使い、うまく立ち回ってきた。誰にも罰せられないギリギリのラインを見極めながら、悪事を重ねてきた。
今回もうまくいっていたはずなのだ。
なのに、この男には一切の常識が通用しない! 正義も理由もなく殺す!? 何を言っているのだ!?
「そうだ、殺す前に、ひとつ感謝をしておこう」
呑気な口調でルシウスが続ける。
「実は、聖なる力を阻害する服を用意してくれたことに感謝している。事前に気づいていたが、
「――!?」
混乱は極みに達した。試験の時点で、かなり強力な聖なる力なのは間違いない。それを、阻害された状況で行使した? ありえない。そもそも、阻害の服を着た時点で、常人であれば微弱な魔法すら行使できないのが普通なのに!
ヴィクターの思考は、押し付けられた一言で強制的な中断を余儀なくされた。
「では、さようなら」
闇の刃がずぶりとヴィクターの胸に呑まれていく。それが心臓に達したところで、ヴィクターの体はびくりと大きく動き、2度と動かなくなった。
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