第13話 トリック
「……うっ!」
再び、世界が変わるような『感覚』――
また無数の瞳が私を見つめている。だけど、以前とは違った。心の中にずけずけと侵食してくる感じではない。ただ、じっと見つめられている感覚が肌を刺すように伝わってくる。
ルシウスが使った、猛獣という表現は的確だ。視線と私の間に一枚の防壁があるような感じで、もし気を緩めれば容赦なく侵略してくるだろう。
……でも、大丈夫。心配しなくていい。
精神世界の中で、私は静かに膝を折った。両目を閉じ、胸の前で両手を組み合わせて、強く祈る。
授業で5級聖具の十字架に触れたとき、はるか遠くにいる神聖なるものの存在、その微かな残り香のようなものを感じた。
だけど、今度は違う。
より濃厚だった。
圧倒的な存在が、まるでそこにいるように感じられる。暖かくて優しい気配に抱きしめられているような――ただ、幸せで心が休まる感覚。呼吸のできる温かい水で微睡めば、きっとこんな感じかもしれない。
もっと強く偉大なる存在を感じ取ろう。
祈りとは願いである。祈り続ければ、その願いも叶うだろう。どうか、あなたの力を、存在をもっと感じさせてください。
どれくらい祈っただろうか。
集中しすぎて、自分の魂の境界がぼやけてきた。空間と自分の境目がわからない感じ。
もう、時間かも。これ以上、ここに留まっていてはいけない。
私が、人を辞めることになる。
……声が聞こえてくる。
女性だろうか。あまりにも小さすぎて、何を言っているのかはわからない。人間の言葉かすらもわからない。だけど、なんだろう。懐かしくて聞き覚えのある声のような……。どこで、聞いたことがあるんだろう。
どこで――
精神世界が崩れた。再び意識が現実に浮上してくる。体に力が入らない。ふらりと倒れそうになる体を誰かが後ろから支えてくれた。
ルシウスの端正な顔が覗き込んでくる。
「どうだった?」
「はい、祈ることができました……」
……まだ思考がうまく回らない。惚けたような私は、うまく状況が掴めないまま、問われたことに答える。
「それは本当に良かった。まだ頭がクラクラする?」
「……はい……寝起きのような感じです……」
「それは仕方がないことだ。高位の存在に接近したのだから。人の限界を超えていたんだよ」
「……すごく……濃厚な気配を感じました……。神聖で不可侵で……私には及ばない存在を……あれが女神様ですか……?」
「おそらくは、そうだろう。聖具とは神聖なる世界と現世を繋ぐパスのようなものだから。それを感じ取ることは――宗教者としてとても大切で貴重な経験だ」
ルシウスに支えられたまま、私は己の右手を挙げた。開けたり閉じたりする。
「……変わったんですかね?」
「変わったさ。だけど、特級とはいえ1日で全てが変わるわけじゃあない。こういうのは積み重ねなんだ」
「……積み、重ね……」
「明日もここで同じことをしよう。積み重ねていけば、君は変わる。一緒に頑張ろう、アリシア」
今日の修練はここまで。
少しぼんやりとする私は、ルシウスに連れられて待ち合わせをしていたベンチまで戻る。空気は冷たいはずなのに、あまり感じない。頭がぼうっとしているのもあるが、体そのものが、自分のものではないような感覚があって、どこか鈍感になっている。
ベンチの前で別れることになった。
「ここからは一人で大丈夫かい? ついて行こうか?」
「……いえ、二人で歩いているところを見られると、言い訳ができません。大丈夫です……」
少しフラフラするけど。
「わかった。なら、ここで別れよう。また明日」
「はい」
幸いなことに、自分の部屋まで無事に戻れた。あまり頭が働いていなくても、ルーティンをこなす分には問題がない――それと同じだろう。
暗がりのベッドに横たわる。
頭はぼうっとしていたけれど、明らかに興奮していた。脳も体も意識も感情も、全てがぼうぼうと燃える炎のように己を主張している。とても眠れそうにない。
だけど、時間は偉大だ。
時間が経つごとに、私の意識は沈静化していき、だんだんと冷静さを取り戻していく。
ようやく自分の中で色々と整理できた頃――
立派に赤面した。
ルシウスに背後から支えてもらったことを冷静に受け止めたからだ。冷静に受け止めると、ただただ恥ずかしい。足をジタバタとさせてしまう。
「迷惑のかけっぱなしだったな……」
愛想を尽かされないだろうか。彼が求めているのは、少年時代に出会った頼り甲斐のある輝いた『アリシア』なのに。
だけど、ルシウスは言ってくれた。
――また明日、と。
明日があるということだ。少なくとも、また特級聖具による訓練ができる――それ以上に、ルシウスにまた会える。
あれ? ルシウスと会えることが嬉しくなっている?
自分のそんな心の動きがもどかしく、アリシアはまた足をジタバタとさせてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
あれから2週間がすぎた。
「それじゃあ、アリシア、また明日」
いつもの言葉を送って、ルシウスはアリシアと別れた。初日こそ酩酊していたアリシアだが、だんだんと慣れてきたのだろう、日を追うごとに意識がはっきりとするようになった。
精神を侵略してくる『神聖なるもの』への耐性がついてきたのだろう。
それは素晴らしいことだ。
強い聖なる力を扱うには、それ相応の器が必要だ。器とは聖なる力を操る術者の精神を指す。今現在、アリシアのそれは急速に鍛えられ、拡張しているのだ。
ルシウスは自室に戻った。
椅子に深く腰掛ける。
「まさに完璧だ……!」
アリシアは聖女としての階段を着実に登っている。特級聖具という、通常であれば『決して祈りを捧げる対象として選べないもの』を使うハードトレーニングをこなしている以上、彼女に勝てるものなどいない。
間違いなく、アリシアは聖女になる。
このルシウスの手によって。
それはとても心地いいことだった。聖女になるべき人物が、聖女への道を歩む。それをルシウスが手助けする。これほど気分のいいことはない。
アリシアもうまく進んでいる実感があるのだろう、出会った頃は優れなかった表情にも明るいものが増え始めてきた。自分のものにしたい――そんな女性の晴れやかな笑顔には黄金の価値がある。
(もっともっと幸せになるといい、アリシア。大丈夫、心配しないでいい。君の未来には幸せしかないから。この私が保証するよ)
あの笑顔を守るためなら、なんだってする価値がある。
彼女を聖女に導くことなど、長い人生の前哨戦。その先も、ずっとずっとルシウスはアリシアのために暗躍する。
アリシアという光が輝き続けるために。
「私が決めた未来を誰にも邪魔させるつもりはない」
教会が異を唱えるのなら、教会組織ごと叩き潰すつもりだ。強大な組織であろうと、逆らうならば容赦はしない。それが原作ゲームにおいて、暗黒騎士として世界を相手に戦った男の狂気であった。
ルシウスは鞄から『聖グレゴリウスの瞳』を取り出し、眼前に掲げる。暗い墨のようなものを中央に宿した水晶玉。
――その墨のようなものが、ずいぶんと薄まっている。
何も不思議ではない。ルシウスの記憶では、もともと墨のような汚れは存在しなかったのだから。
「どうだ? アリシアの聖なる力は? お前の穢れを浄化してくれるのだから、ありがたいだろう? 彼女に感謝することだな――」
その瞬間、水晶玉内部の墨が濃度を増した。
「だが、もう少し眠っていてもらおうか。あまり元気になられても困る。これはお前のためでもある。万が一、彼女の精神を壊せば、私はお前自身を破壊するからな」
それで怒りが収まるとは思わないが。
不足であれば、その向こう側にいる女神すらも殺すか。アリシアがいなくなった世界など価値がないのだから、全てが滅びても問題はない。
黒く濡れた水晶玉を眺めながら、ルシウスが口元に笑みを閃かせる。
「アリシア、必ず君を幸せにしよう」
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