第12話 恐ろしくもあり、喜びでもあり

 そんなわけで、私の目の前に特級聖具があった。


「ええと、本当なんですか……?」


「そんなことで嘘をつくはずがない。聖女を目指すんだろう? これくらいのものを使わないと」


 ルシウスが紫色の絹布を壇の上に置き、丁寧な仕草で水晶玉をのせた。


「さしもの私も、雑には扱えないな」


 私は近づき、水晶玉を覗き込む。

 不思議なことに、水晶玉の内部には水に墨でも溶かしたかのように、薄暗い何かがふわふわと漂っていた。

 これが、目なのだろうか……?


「教会から借りたのですか?」


「黙って借りたのだよ」


 窃盗だった。


「ええと……いいのですか……? バレるとまずいのでは……?」


「こういった宝物は閉鎖された部屋の奥に隠されているものだからね。いつの間にか消えていても気づかれないよ」


「意外とヤンチャな性格なんですね」


「目的のためなら手段を選ばないタイプではあるね」


 悪びれもない、とはこのことだろう。


「聖女への道のりは簡単なものではない。これくらいのものを使わなければ夢は叶わないだろう。遠慮の必要があるかね?」


 聖なる力はどうやって高まるのか? それは結局、女神に対する気持ちの積み重ねだと言われている。

 毎朝、真摯に女神に祈る。食事のたびに女神に感謝する。教会を履き清める。人々に女神の愛を説く。

 そんなことの地道な積み重ねが、聖なる力を高める。

 聖地を巡礼したり、聖具に祈るというのも、その行為に含まれる。神聖なるものに祈ることは、とても大切なことなのだ。

 特級聖具を好きにできる――

 最高の環境が与えられたわけだ。


「やります」


「うん、それでいい。頑張りたまえ」


「……触っても、大丈夫ですか……?」


「もちろんだよ、好きにしたまえ」


 特級に触れる――怯むな、乗り越えろ。

 自分に言い聞かせると、私は水晶玉に手を触れた。水晶玉の表面はとてもなめらかで、ひやりとした感覚が手のひらに伝わってくる。

 そこに特別な感じは特になく――


「う、うわああああ!?」


 思わず声を上げてしまった。

 強烈な『感覚』が水晶玉から伝わってきたのだ。まるで部屋の壁や天井、床に無数の目が現れて、私を凝視している感覚。身体中に充満した感覚は……なんだろう? 私の中にある人間性を希薄にして、透明な何かへと還元していくような。柔らかくて、温かい……間違いなく、私は消える。自我が消失する。だけど、どうしてだろう。そこに怖さはなく、喜びだけがある。


「まだ、か」


 白く染まりつつあった世界が、ルシウスの言葉とともに割れ砕ける。

 ルシウスが片腕で私の体を抱き取り、水晶玉から引き剥がしたのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 おそらくは瞬きほどの時間だっただろう。だけど、無限のような長さのように感じられた。急速に戻りつつある現実感が満ちるまで、私は思考すらままならない状態で、ただ大きく息を吐き続けた。

 ……うん、大丈夫。

 自分の魂がここにあり、自分の肉体がここにあり、自分の意思がここにある。私は私だ。何も変わっていない。


「大丈夫かい?」


 耳のすぐ横でルシウスの声がした。ルシウスが背後から抱き留めていることに気がつく。

 お、おお……。

 遠かった現実感が、圧倒的な存在感を放つ。主に背後から。


「はっ、はっ、はっ」


「ゆっくりでいいよ。まだ呼吸が整わないんだね」


 この激しい呼吸はさっきまでと違う緊張のためなんだけど……。ただ、それを悟られるのも恥ずかしいので、勘違いを利用させてもらうことにしよう。


「はっ、はっ、はっ」


 ダメだ。ルシウスと密着しているせいで呼吸が整わない!


「ごめんね、少し無理をさせてしまったようだ」


「……大丈夫です……気にしないでください……」


「おかしなところは?」


「えぇと……もう大丈夫です……」


 実のところ、あまり情緒は大丈夫ではないのだけど、きっとルシウスが尋ねている観点において問題ないのは間違いない。


「そうか、ならよかった。少し休んでいて」


 密着していたルシウスの体が離れていく。ああ、よかった……緊張で窒息死しそうだった。せっかく現実に戻ってきたのに、いきなり死ぬでは大変なことだ。

 まだ心臓がドキドキと脈打っている。

 ルシウスの声色にも挙動にも変なところはない。私との接触で動揺している様子はない。なんだか、私だけ舞い上がってしまって恥ずかしい気分だ……。

 ルシウスは水晶玉に近づいた。背中しか見えないので何をしているのか不明だが、水晶玉を触っているようだ。

 その背中に声をかける。


「あの……何が起こったんでしょうか?」


「聖具に魂を喰われそうになった……という感じかな」


「――!?」


「位の高い聖具とは腹を空かせた猛獣のようなものだよ。未熟なものが不用意に近づけば食い殺される。一般に開示されない理由のひとつだよ」


「危険だったんですね」


 となれば、この方法はもう使えない。少し残念な気持ちになる。特級聖具という素晴らしいものを使えるチャンスだったのに。


「申し訳ないことをした。少し見積もりを間違えてしまってね。よし、できた」


 ……できた?

 ルシウスが振り返った。


「もう一度、やってくれないか?」


「もう一度……?」


「今度は大丈夫だから」


 なぜ大丈夫なのだろうか? 何かが変わったとも思えないのだけど。


「――わかりました」


 結局、その選択肢しかないのだ。今の現状を変えるには、ルシウスの提案に乗るしかない。落ちこぼれと笑われたまま終わりたくなんかない。変える努力はしないと。

 水晶玉の前に立つ。

 水晶玉は相変わらず、中央に墨のようなもの漂わせている。……? よく見ると、墨のようなものが濃度を増したような気がするけど、気のせいだろうか。


「ふぅー……」


 大きく深く深呼吸する。緊張と恐怖よ、鎮まれ。

 あの不思議な感覚に浸るのが怖かった。あれは……良くないものだ。魂から人の形を奪う何か――恐ろしいことは、恐怖とともに歓喜があることだ。至上なる世界への片道切符。

 前はルシウスが助けてくれたけど、今度はどうなるのだろう。帰って来れるのだろうか。あの誘惑に抗えない感じもする。そうなれば、もう戻ってこれないかも。

 水晶玉に両手を近づける。だけど、体がうまく動かない。この一線、ここを越えるといけない、本能が叫ぶポイントで手が止まる。


「ふぅー……ふぅー……」


 ルシウスを信じるんだ。彼が今度こそ大丈夫だと言ったのだから。この線を越えなければ、私は私の人生を変えることはできない。聖女の道も開きはしない。

 再び背後に気配が現れた。


「私を信じて。必ず守るから。ほら、一緒にやろう」


 背後からルシウスの両手が伸びてきて、私の両手に添えられた。束の間、息が止まる。

 ルシウスの手は暖かくて、包み込むような優しさを感じた。深くて艶やかな声が耳に入ってくる。


「大丈夫、緊張しないで。何も怖くないから」


「は、はい……」


 頬の赤さを自覚しながら応じる。

 ルシウスの手に操られるまま、水晶玉に手を伸ばした。抵抗はできない。手のひらが、最後の一線を超えた。

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