第11話 聖グレゴリウスの瞳
消灯の時間が過ぎて、教会が夜の闇に沈む。いつもならば、特にすることもなく眠りにつくのだけど、今日は違った。
ルシウスとの約束があるからだ。
幸い、この教会の寮は個室なので、勝手に出かけたとしても誰かに疑われる心配もない。
私はそっとドアを押し開けて、薄暗い廊下に身を滑らせる。
月明かりが差し込んでいるので、灯りを使う必要はない。ルシウスからは、誰にも見られないように、と釘を刺されている。もちろん、釘を刺されていなくても見つからないようにするつもりだけど。劣等生の私と、第1級聖騎士が密会していると知られれば大変な騒動になるだろう。
だから、一歩ずつ慎重に歩む。
うん、緊張しているから、それは難しくない。
だけど、高揚している部分もある。
何かが変わるのだという期待。それがあるから、油断すると足早になってしまう。
ううん……世界がふわふわするなあ……。心が浮ついているからだ。期待と恐怖の大嵐に翻弄される船のように。
大聖堂の外に出た。
昨日、話をしたベンチに向かっていく。感情の割合は、緊張の度合いが高くなっている。もしもそこに、誰もいなければ? 夢は解ける、昨日と違うはずの今日は永遠に怖い。答えを知りたいような、知りたくないような。自分に価値がないと思ってしまうから、輝ける未来を信じ切ることができない。辛いことが多過ぎたから、どうしても、辛いことばかり考えてしまう。
今回も、きっと――
ベンチが見えた。
「やあ、よく来てくれたね」
暗がりの中、ルシウスがにこやかな表情で私を待っていた。
ああ……。
夢ではなくて、私が見た幻想でもなかった。昨日の出来事は確かにあって、今日ここにルシウスは確かに来てくれた。
あ、ダメだ。とても嬉しい。嬉し過ぎて、うう……。
私の目からこぼれた涙を見て、ルシウスが口元に笑みを浮かべた。
「どうしたんだい、急に泣き出して?」
「ご、ごめんなさい。ルシウスがいてくれたことが嬉しくて――」
本当のことだった。今まで苦労の多い日々で、何を信じればわからなかった。裏切られたり、失望したり。そんな毎日を過ごす中で心をすり減らして。
だけど、ルシウスは違った。私との約束を守ってくれたのだ。それはとても小さなことだったけど、今の私にはとても大きなもので――
「ずっと怖かったの。ここにあなたがいなかったらって。いてくれてほっとして、嬉しくて……」
「そうか、嬉しかったんだね」
満足そうにルシウスが笑みを浮かべる。
「うん、私の勘違いか、からかわれているのかと思って……」
「ははは、だったら、それは勘違いだとわかってくれたかな? 私は君が喜んでくれることならなんでもするし、君との約束を破ることもない。嬉しくて泣いてくれたのなら、私は幸せ者だ」
その後、ルシウスが続けた。
「だけど、まだ泣くのも感動するのも早いよ」
「え?」
「君を喜ばせるのはこれからだから。泣くのは、君を不幸の塔から救い出す魔法を見てからにしてもらおうか」
そう言うと、ルシウスが歩き出した。
教会に入り、階段を登っていく。教会の掃除も担当しているので、その部分の構造は熟知しているつもりだ。だけど、ルシウスの向かおうとしている場所には心当たりがない。
私の地図の白紙の部分――
上級シスターたちが清掃を担当している場所で、入室を禁じられている部分だ。いわゆるVIPのための空間だ。
ルシウスは第1級聖騎士なので、当然といえば当然なのだけど。
「ここだよ」
ルシウスが両開きのドアを開く。
そこには聖堂があった。私が掃除していた1階の大聖堂に比べるとこじんまりとしているが、明らかに質が違う。
正面には、金箔を施した壮麗な祭壇が鎮座し、その両脇には美しく造形された天使の彫像が並んでいる。壁に打ち込まれているステンドグラスの窓も、とても繊細な作りである。
そして、たちこめる空気の雰囲気――
明らかに何かが違う。例えるなら、平地の空気と、早朝の高山に漂う空気は質に違いがあるように。
ここに、荘厳な何かがあると思わせてくれるようだ。
おそらくは何かしら聖具が飾られているのだろう。その力によって空気が清められているのだ。
「ここは?」
「外部向けではない儀式を秘密裏に行うところ、と言ったところだ。ここに泊まる人間であれば自由に使っていいとされている」
遠慮のない足取りでルシウスが前に進み、十字架の手前にある説教壇まで歩いていく。
「今日からしばらくは、私と君だけの秘密の教室になるけどね」
そう言って、イタズラっぽく笑う。
――君が聖女になれるよう、私がレクチャーしてあげよう。
思わず手をぎゅっと握りしめてしまった。
聖女になるためのレッスンが始まる。どこまでも遠い目標、決して近づけない目標だと思っていた。子供の頃の夢はとっくの昔に破れ去っていて、それを止めることができずに歩き続けているだけ――そんな虚しさすら感じていたのに。
その夢が、再起動する。
本当に、信じていいのだろうか? いや、自分自身で信じられるのだろうか? 本当に私は聖女となって、人々のために尽くせるのか?
「頑張ります」
「うん、その意気だ。教え甲斐があるよ」
ルシウスは部屋の片隅に置いてあった鞄を手に取った。そこから何かを取り出す。
水晶玉だ。
「この聖具に祈りを捧げてみようか」
「……タイムリーですね」
「何が?」
「実は、今日の授業は聖具に祈りを捧げる、だったんですよ」
「へえ、面白いね。何級の聖具を?」
「5級です」
「はっはっは、見習いが触れるくらいだとそんなものかな?」
「エレノアさんは2級を見たことがあると言っていました」
「自慢げに?」
「……自慢げに」
「なるほど、まあ、2級程度なら自慢になるかな」
「…………」
鼻であしらったルシウスの言葉に、私は焦りを覚えた。ルシウスは明らかに2級を下に見た発言をしていた。
であれば、あの水晶玉の等級は――
私はゴクリと唾を飲み込む。
「まさか……第1級の聖具、ですか……?」
恐る恐る私が問うと、ルシウスが驚いたような表情をした。
「ああ! ごめん! この話の流れだとそうなっちゃうか。期待を持たせてしまって悪いけど、違うよ」
「ああ、そうなんですね!」
むしろほっとした。安堵の息がこぼれる。そんな大層なものを使うなんて畏れ多い。こう、私にふさわしい庶民的なものから――
「うん、違う。1級のさらに上、特級だ」
「……は?」
特級? そんな階級があるの?
「知らないのも無理はない。あまりにも力が強すぎて、もはや聖具を超えて神具と称される領域にあるものに振られる等級で、情報としては秘匿されているからね」
なんだか、並べてられている単語の強度が半端じゃないんですが。
「特級聖具『聖グレゴリウスの瞳』――これを使って今日の授業を始めようじゃないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます