第10話 聖女見習いアリアナの現在地

 目が覚めた。

 体がだるい。あの広い大聖堂を一人で掃除したのだから、当然ではあるのだけど。こんな朝は心まで鬱々としてくるのだけど、今日は違った。


 ――君が次の聖女になる。私はそう確信している。


 昨日の夜の言葉を思い出す。

 美男子に成長していたルシウスの姿とともに。

 実は8年前に出会った危うい思想の少年は、実は世界を滅ぼすはずの暗黒騎士だったけど、なぜか今は聖騎士になっている。

 そして、私を応援してくれようとしている。


 ちょっと現実感が足りないですね。

 夢なんじゃないだろうか……?


 どうにも自分の記憶に自信がなくなってくる。今晩、会う約束をしているので、誰も現れなければ夢ということにしよう。

 よし、頭を切り替えよう。

 朝の支度をして、午前の予定に備えれなければ。

 朝食を食べた後、朝の祈りや聖書の朗読を終え、私は聖女見習いたちが集まる教室へと向かった。

 聖女見習いたちが集まる教室はさほど大きくない部屋だ。大学の講義室のように階段状に机が並んでいて、私を含めて10人の候補者たちが座っている。


 私は誰とも挨拶せず、座席についた。


 ……私が非社交的だから、というわけではない。残念なことだが、なぜか私はエレノアから軽んじられている。そして、この教室の女王様はエレノアだ。ゆえに、エレノアの態度は皆に感染する。

 つまり、私が挨拶をしても誰も返してくれないのだ。

 そんな私の耳にも、彼女たちの会話は耳に入ってくる。


「昨日のエレノア様のお美しさは本当に素晴らしかったです! 昨晩からずっと忘れられなくて、思い出すたびにうっとりしています!」


「ええ、本当に! パーティー会場で最も輝いていましたよ!」


 そんな言葉が聞こえてきた。

 ……エレノアとよく一緒にいる取り巻きの声だ。


「うふふ、ありがとう」


 エレノアが落ち着いた声で彼女たちに応じる。


「だけど、少しやりすぎたかしら? まだ聖女見習いだものね」


「気にしないでいいのでは? エレノア様が聖女候補に選出されるのは当然ですし、その後、聖女に選ばれるのも間違いありませんから!」


「それにエレノア様の美しさを隠すことは難しいと思います!」


「言い過ぎよ、あなたたち」


 嗜めながらも、エレノアの声色は実に上機嫌だった。

 彼女たちはよくこんな会話をしている。エレノアを持ち上げて、気分良くするための会話を。

 聖女候補を目指すライバル――という対抗心はどこにもない。教会と関連の深い侯爵家の娘であり、いずれは聖女の座、あるいは、それに近い高位の役職に就くのは間違いない。

 そして、エレノアは立ち向かった人間には容赦せず、強い敵意を抱く性格である。聖女見習いのライバルとして奮起すれば、そのことをずっと忘れず、将来にわたって冷遇してくるだろう。ゆえに、友好的な関係を維持して、将来の縁作りに精を出すのは間違った選択ではない。


「エレノア様とルシウス様の並びは本当に綺麗でした!」


「ええ、同感です! 美男と美女の共演という感じで! 夢物語のような華やかさでした!」


「第1級聖騎士と未来の聖女――なんてお似合いなカップルでしょう!」


「だから、言い過ぎって言っているでしょ?」


 エレノアの苦笑には自慢げな響きがあった。自分でもお似合いだという自負があるのだろう。確かに、エレノアの顔立ちは派手で、間違いなく『美人』の範疇に入る。

 同じく顔立ちの整ったルシウスとはお似合いになるだろう。


「だけど、どうも彼が私に気があるのは間違いないわ。だって、私のことを褒めちぎってくれたから。少しでも、私の気を引こうと……必死だったから……ま、有力な候補くらいは認めてあげてもいいかもね?」


 そんなエレノアの上から目線な言葉に、取り巻きたちが喝采をあげる。

 うーむ、盛り上がっているなあ……。


 ――あまり興味のわかない人物だったね。


 そんなルシウスのエレノアに対する評価を思い出す。その声は実に寒々としていて、本当にどうでもいい、という印象だった。

 ルシウス……。

 なるべく意識しないでおこうと思っていたのに、その名前を聞いただけで頭の中が昨晩のことで一杯になってしまった。


 本当に……あの記憶は確かなのだろうか?


 99%は本当だという自信があるけれど、1%で信じられないもどかしさ。それくらい『ありえない』ことだったから。

 早く、真実を確かめたい。

 早く、夜になってくれないだろうか。

 そんなことを考えていると、ヴィクター先生が教室に入ってきた。同時、エレノアたちも口をつぐむ。


「それでは授業を始める」


 そわそわする日は、あまり自由な時間を作りたくない。こうやって何かで埋まっていくことは歓迎だ。

 ……集中できるのか、と言われると難しいのだけど。

 授業が粛々と進んでいく。

 やがて、ヴィクター先生が小さな十字架を取り出した。


「これは400年前、とあるシスターが愛用していたものです。彼女は人々に尽くす強い気持ちを持っていて、生涯を人々への尽力と神への祈りに捧げました。

 そんな強い感情は、ときに愛用していたものに宿るのです。それを『聖具』と呼びます。この十字架もその1つです」


 そして、それを生徒の一人に手渡す。


「聖具は女神様に繋がっていると言われています。聖具に祈ることは、あなたたちの感情を穏やかにし、豊かに育んでくれることでしょう。前から回しますから、順番に祈りを捧げてください」


 授業が進んでいる間、聖女見習いたちの手らか手へと十字架が渡っていき、やがてエレノアの番になった。


「先生、この聖具の階位は?」


「5級です」


「しょぼすぎない?」


 エレノアがケラケラと笑う。


「私、2級を見たことがあるんですけど? 今さら5級とか?」


「何事も手順が大事なのですよ、エレノアさん」


 ヴィクター先生が黒板に文字を書きながら話を続ける。


「皆さんは初耳かもしれませんが、聖具にはこもっている力によって5段階の評価を受けています。5級から始まり、4、3、2、1級です。エレノアさんの言っている2級はかなりのグレードのものです」


「まあ? 才能のある侯爵令嬢だから、それくらいはね?」


「ただ、力の強い聖具には危険性もあります。力の弱いものが祈れば、逆に心に良からぬ傷を残すこともあります。聖具とは、よく切れる刃物と同じです。未熟な人間が扱えば、傷つくのは己なのです。なので、皆さんには5級のものをお渡ししております」


 エレノアが祈りを捧げている――

 その時間はとても長い。まるで他の生徒たちなど関係がないような様子で、じっくりと没入している。私のところに十字架が回ってきたのは、かなり時間が押している状況だった。

 急がないと……。

 十字架を手にして、目を閉じる。世界を暗闇に。心を平穏に。心を無に。手に持った冷たく重い金属から、温かいものを感じる。これが聖具に宿る聖なる力――それはまるで光のカーテンのようで、私にその向こう側にある女神様の存在を微かに感じさせてくれる。

 もっと奥へ、もっと近づいて――

 トントンと私の肩が叩かれた。

 集中が、途切れてしまった……。

 振り返ると、エレノアの取り巻きの一人が右手を差し出していた。


「ねえ、もう授業が終わるんだけど。早く回して?」


 え?


「私も受け取ったばかりなんだけど……」


「そんなの知らないわよ。私の時間がなくなっちゃうじゃない。そもそも、成績の悪いあなたには無用でしょ、それ?」


 彼女の言葉が聞こえているのだろう、エレノアたちがニヤニヤと笑っている。

 そういうことか……。

 怒りが胸の中でぐつぐつと煮えたぎる。そもそもエレノアが長く独占したからこうなったのに! どうしてその負債を私が負わなきゃいけないの!?


「待って欲しい。私はまだ使いたい」


「最悪ぅ」


 醜く顔を歪めながら吐き捨てると、彼女は手を挙げた。


「先生、アリシアさんが十字架を回してくれません!」


 ヴィクター先生が黒板に文字を書く手を止めた。


「……アリシアさん。あまり時間がありません。次に回してください」


「――! で、でも、私は本当に受け取ったばかりなんです!」


「授業の終わりが近づいていますから、諦めてください。早く次の人へ」


 担任教師にそう言われてしまえば、私に反論の余地はない。

 仕方なく、私は聖具を手渡す。

 もちろん、彼女はじっくりと時間をかけて祈りを捧げていた。その半分の時間でも私にもらえれば……。

 胸の中に、何か重いものが沈んでいくような感覚がある。

 君は聖女になれるとルシウスは言ってくれた。だけど、現実はこんなものだ。誰も私に期待せず、誰も私の味方をしてくれない。

 本当に、私は聖女になれるのだろうか?

 やはり、昨日の出来事は、心が弱くなってしまった私が見た幻影なのだろうか?

 そんな鬱屈とした気持ちを抱えながら、時刻は夜を迎える。




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