第6話 揺れ動く感情

 揺れ動く己の心に戸惑いながらも、少年は毎日、アリシアの優しさにほだされていた。

 それは甘美で心地よかったけれども、同時、少年の心には衝撃的な日々だった。

 どうして、こうも尽くしてくれる?

 自分がそれに値する人間とは少しも思えないのに。自分はどうしようもないクズで、情けをかけられる価値もない人間なのに。


「おい」


「なんですか?」


「どうして、俺にまで食料を与えてくれるんだ? メリットがないだろう?」


「……え、メリット?」


 アリシアは心底から戸惑った表情を浮かべた。きっと、その戸惑いは少年のものと同じだ。人生で初めて出会った考えへの動揺。


「メリットととか考えたことがないですよ。困っている人がいたら助けるのが普通じゃないですか?」


「普通なものかよ」


 吐き捨てた。実際、これは少年が正しい。この世界は現代社会のように豊かではない。余裕がない以上、他人が他人に優しくできるのは簡単ではないのだ。

 だけど、アリシアにはできた。それは前世が現代社会の人間ゆえの善性と、前世の人物の性格そのものが『人がいい』からだ。


「お前みたいな人間は初めてだ。どうしてそんなに優しくできるんだ?」


「ううん、そうですね……」


 しばらく考えてから、アリシアが答える。


「聖女になりたいという夢があるから――ですかね?」


「聖女……?」


 それは『神に仕え、民衆に尽くす』ことをモットーとする教会の、最上層に位置する役職である。人々の幸せのために身を粉にする存在と、少年は理解している。


「……どうしてそんなものに?」


「教会と関係が深い家に生まれたというのもありますけど――たくさんの人を助けたいと思っています」


「たくさんの人を、助ける?」


「はい。私の力を磨き上げて、他人を幸せにする。素晴らしいことだと思いませんか?」


「割りに合うのか、それ?」


「少なくとも、あなたを助けることができて、私は嬉しく思っています」


 にっこり笑ってから、イタズラを思いついたかのように微笑んで付け加える。


「あなたの表情が日に日に柔らかくなっていることは、素晴らしい報酬です」


「な――!?」


 そんなことを言われて、思わず顔の体温が上がってしまう。冷徹で情け容赦のない、殺戮マシーンの自分だったのに。

 自分の表情を隠すように、口を手で覆う。


「人を助けることの素晴らしさを教えてくれたのはあなたです。ああ、そうだ、お互いに名乗りませんか。私はアリシアと申します」


 教えてやらない、と意地悪な気分が頭をもたげた。いいように転がされている自覚がある。本来の俺のペースではない、そう思う。だけど――

 この子になら、いいように転がされたいとも思う。


「ルシウスだ」


「ルシ……ウス?」


 少女の反応は少し意外なものだった。聞き間違いかのように首を傾げて、何かを見通すかのようにじっとルシウスに視線を投げかけている。


「ルシウス、という名前はよくあるものですか?」


「……え?」


 妙な質問だった。


「知るかよ」


「そうですよね。あははは、気にしないでください」


 何かを誤魔化すような笑い声が気になったが、ルシウスは何も言わなかった。それに重要な意味があるとは思えなかったから。

 ルシウスはアリシアと離れて、いつもの自分の居場所に戻った。ルシウスの中にはふたつの自分がせめぎ合っている。アリシアともっと距離を縮めたいと思う自分と、距離を置きたい自分と。

 だから、距離が近すぎると感じたら、定期的に距離を置いている。そのほうが落ち着くからだ。


(あいつといると、むず痒い気持ちになる……)


 そのむず痒さが、日を追うごとに心地よくなっているのが厄介なところだが。


(いいんだ、もうこんな日も終わる)


 アリシアのおかげで、ルシウスの体もだいぶ癒えてきた。アリシアから聞いた話や太陽の位置からして、村の方角もおおよそはわかっている。アリシアも足を負傷しているが、ルシウスが手を貸してやれば歩けなくはないだろう。


(食料も残り少ない、動くなら明日か)


 おそらくは問題なく村に帰ることができるだろう。その自信はある。

 だけど、あまり気分は良くならなかった。むしろ、悪くなった。それは地獄の日常に戻るというだけで、アリシアとの別れも意味していたから。


(あいつと一緒にこの森で暮らすのも面白いか)


 そんな考えが浮かぶが、ルシウスは首を振った。


(俺はともかく、あいつはそれで幸せになれないだろう。脱出するべきだ)


 だけど、ルシウスが思った以上に、己の心が執着していた。あの女を自分だけのものにしたい。それでいいだろう? そうすればいい。


 ――この地獄に咲いた一輪の花を、どうして捨てる?


 浮かび上がってきた言葉は想像以上にルシウスの言葉に刺さったが、ルシウスは相手にしなかった。こんなところで二人で生きていくなど馬鹿げている。

 そんなことを提案するのも怖かった。

 アリシアに嫌われたくないから。アリシアの幸せは別の場所にある――


(どうして俺はこんなことに戸惑う?)


 ルシウスは首を振り、さっさと眠ることにした。


(もうどうでもいい。村に戻れば、このうだうだとした気持ちも終わる。終わるんだ)


 翌日――

 あとは村に戻るだけ、そうはならなかった。いつもは早く起きているアリシアの目覚めが遅かった。


「……どうした?」


「あ、ご、ごめんなさい。朝ごはんを食べなきゃ、ですね……」


 よろよろと身を起こしたアリシアの体が力を失ったようによろめく。慌ててルシウスが体を支えた。


「おい、どうし――!」


 言葉が途中で止まった。アリシアの体そのものが答えだったからだ。とても熱い。全身を焼く炎のようだった。


「こ、これは……?」


「狼に噛まれたところが炎症を起こしているのかも……」


「…………!」


「少し、休ませてください……朝ご飯はバッグから取ってください……」


 そう言って、アリシアは意識を失うかのように再び眠った。ルシウスはアリシアの体を元に戻したあと、リュックサックを漁った。

 かなり量が減っている――

 このまま二人で、弱り切ったアリシアを守りながら過ごしても、ジリ貧だろう。助けが来る見込みは怪しい。


(こないだろう。村人は森の奥に入りたがらないから)


 であれば、旅立つしかない。

 ルシウスは動けて、アリシアは動けない。黒い感情が、心の底から頭をもたげてくる。


 ――その女を捨てていけばいい。足手纏いなのだから。残された食料を腹一杯食べて、お前一人で歩いていけ。どうせ危篤な状態だ。いつ死ぬかもわからない。ここで捨てて行ったところで、誰もお前を責めはしないさ。


 確かにそれはその通りだった。2人で死ぬか、ルシウスだけ助かるか。選択肢がそれしかないのなら、後者を選ぶのが当然だ。

 これは仕方がない。

 仕方がないことなんだよ、ルシウス――

 人のいいアリシアなら、きっと笑顔で言ってくるだろう。あなただけでも助かって、と。

 ルシウスはリュックサックに手を突っ込むと、あっという間に全ての食料を平らげた。久しぶりに、腹が膨らんだ、という感覚に心地よさを覚える。


「さて、帰るか」


 ルシウスは立ち上がると、ぐったりとしたアリシアを背に背負う。


 ――ルシウス! お前、何を!


 ルシウスがせせら笑う。


「こいつも連れて帰る、それだけだ」


 思ったより軽くて、ルシウスは笑い出しそうだった。そうだった、いつも「たくさん食べるといいよ」と多めに食料をくれていた。だから、アリシアが痩せているのは当然だろう。


「お前も食えよな、もっと」


 この女を幸せにしてやれたら、満足げにたくさん食べるのをずっと見ていたい――

 そんな役体もない思いつきが頭をよぎる。


(ガキの俺が、そんなことを思いついてどうするんだ)


 どうでもいいことを頭の中から追いやり、ルシウスは一歩を踏み出す。

 人を抱えて、これから森を踏破する――

 雑念を抱えながらできる作業ではない。だけど、不安はない。なぜなら、狼を追い払えるほどには鍛え抜いた肉体を持っているから。

 生まれて初めて、厳しい鍛錬をしてきたことをルシウスは感謝した。

 

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