第5話 餌付けしましょう

 少年は驚いた様子で自分の体を見回した。まるで信じられないような――奇跡を見たかのような。


「体の痛みが和らいだ……?」


「……私の、癒しの力です」


 締められた喉が痛み、軽く咳がこぼれる。


「癒し……? お前、聖職者なのか?」


 この世界の聖職者には『女神の加護』により、その信心に応じた『癒しの力』を持っている。


「聖職者じゃないんですけど、同じ力が扱えます」


「どうして、さっき狼に噛まれた傷に使わなかったんだ?」


「癒しの力は、自分には使えないんです。あと、まだまだ力そのものが弱くて、傷そのものは癒せなくて、痛みを和らげるだけなんです……」


 最後のほうの言葉はゴニョゴニョとなってしまった。正直、自慢げに語れるほどの強い力ではないから。

 だけど、信心深い両親はとても喜んでくれた。


 ――アリシア、素晴らしい子だ。お前は、女神様の寵愛を受けている。


 だから、これは私にとっての誇りだ。


「チッ、そういうことができるなら、先に言っておけよ」


 少年は小さく毒を吐くと、私の上からどいた。

 その後、再び木に背を預けて目を閉じる。用事は終わったんだから、さっさと戻れよ、と雰囲気が伝えてくる。


 私は立ち上がると、彼に近づいた。


 触れたのは一瞬だけだった。あれだけでは、それほど大きな緩和を与えることはできなかっただろう。まだ治す余地はある。

 あんなことをされたけど、不思議と怖いという感覚はなかった。

 それよりは、彼の苦しみを少しでも楽にしたい、そんな気持ちが勝る。自分でも不思議な気分だけど、どうしてだろう? きっと、命を助けてくれた、なんだかんだでついてくることに同意してくれた――パンをあげたとき、少し可愛かった――そんな理由かな?


 私が近づいても、さっきのように襲いかかったりしない。


 気づいていないわけではない。足音も気配も、きっとダダ漏れだから。

 私の行動を伺っているのかな……?

 さて、どう声をかけようかな。ひねくれ屋さん、なのは間違いない。だから、言葉の掛け方が重要だ。


 ――もっと痛みをとってあげようか?


 上から目線。これはきっと気分を害するだろう。


 ――まだ痛むなら、回復しようか?


 へそ曲がりだから、こんな感じで頼んだら、いらない! と言われそう……。

 相手に判断の余地を与えない。そうだ、それがいい。


「もう少し痛みをとるね」


「…………」


 少年は何も答えない。だけど、動きもしない。

 私は最後の一歩、距離を縮める。そして、少年の横で膝をついた。そっと肩に手を置く。その瞬間、少年は不快げに眉を寄せたが、何も言わなかった。

 これはきっと、許してやろうという意思表示だ。

 よしよし、ちょっとは慣れてくれたかな? ガルガルと唸っていた犬が身を預けてくれたような気分だ。

 私は再び聖なる力を使った。今度は長くゆっくりと、彼の体に送り込んでいく。少しでも、彼の痛みが和らぎますように。


「謝らないからな」


 そんな、ぶっぎらぼうな声が聞こえた。いつの間にか、少年が目を開いていた。こちらに視線は向けていないけれど。


「……え?」


「お前の説明不足が悪い。だから、俺はお前を押し倒して懲らしめたんだ。俺は悪くない」


 少し早口で、むすっとした感じで。

 はいはい。それはもう、自己弁護ってやつですね? 自己嫌悪で胸が痛いですか? それはもう治してあげられないんですよね。


「そうですね、私が悪かったです」


「ふん、わかればいい」


 沈黙。


「……だけど、楽になったのは本当だ。礼は言うよ。ありがとう」


 相変わらず、こちらに目を向けていなかったけれど。

 うーむ、素直じゃないなあ。

 でも、きっと、面倒な男の子なりのプライドと今の気持ちを天秤に掛けてのギリギリの妥協点なのだろう。

 どういう形であれ、感謝を口にしてくれたのは単純に嬉しい。

 だから、私はにっこりと笑って答えるのだ。


「はい、どういたしまして」


 少し気持ちが晴れやかになる。こうやって、自分の力が役に立ち、彼の体が楽になったことは単純に喜ばしい。自分の価値を証明できた気分になる。

 癒しの力を使い終わった後、別のことを提案した。


「お腹が空いていませんか? もう少し食べますか?」


 この言葉には、さしものひねくれ少年も、勢いよく視線を向けてきた。


「食べていいのか!?」


 仕方がないね。だって、育ち盛りだし。パン1個だけじゃあ足りないよね。

 彼はまともに食料を持たせてもらえず森に放り出されたらしい。ならば、ずっとひもじい思いをしたまでだ。

 本当は、食料の温存を第一に考えるべきだ。異変に気がついた私の両親が、村人たちを説得して森の捜索をしてくれるかもしれないけれど、いつ発見されるかは不明だから。

 でも、ひもじい思いをしている彼のことを考えると――

 今日くらい、少し多めに食べる選択肢を選んでもいいだろう。


「うん、一緒に食べよ!」


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 アリシアが『少年』と同行するようになって数日が過ぎた。

 少年はあいもかわらず、ぶっきらぼうで斜に構えた様子を崩さなかったが、内心では自分の自我が揺らぐほどの衝撃を受けていた。


 ――この女は、なんなんだ?


 少年にとって人生とは『痛み』でしかない。子供の頃から両親に虐待を受ける痛み、頭のイカれた祖父の妄執をぶつけられる痛み、村人たちから厄介者として冷めた視線を向けられる痛み、容赦のない修練で身体中に覚える痛み――

 世界に生まれた感謝などそこにはなく、憎悪と激怒だけが彼の心にはあった。原作ゲーム『エリクシアの花冠』で世界を滅ぼす暗黒騎士となるための萌芽にふさわしい闇に堕ちた魂がそこにはあった。


 その歪められた世界に、アリシアがやってきた。


 アリシアはどれほど邪険に扱ってもニコニコとした笑顔を崩さない。あんなに酷い目に合わせたのに、毎日のように少年の体の痛みを和らげて、食料を分け与えてくれる。

 そして、少し話しただけで、かわいらしくコロコロと笑うのだ。

 その優しさは少年を戸惑わせた。

 世界は全て敵であり、己を傷つけるためにのみ存在する――

 そんな歪んだ人生観に揺らぎが生じするほどに。


 ――なぜ、この子はこんなに優しくしてくれるのだ?


 彼女の優しさを感じるほど、己の行いと思考に恥ずかしさを覚えた。

 初日、アリシアの首を絞めたとき、このまま殺してしまおうと考えていた。なぜなら、彼女はまだ食料を持っている可能性が高いので、殺して奪うつもりだったからだ。最初こそパンを分け与えてくれたが、その気まぐれがいつまで続くかわからない。それに、どれだけ長丁場になるか不明だ。食料を消費するのは2人よりも1人のほうがいいに決まっている。

 なのに、アリシアは食料をずっと分け与えてくれた。

 それどころか、自分は年下で体も小さいから、もっと食べて欲しいと言って、自分よりも多くの食料を少年に渡した。

 少年は戦慄した。

 どうして、そこまで他人のことを思いやれるのだ?

 少年にとって他人とは、少年を痛めつけ、少年から奪い取るだけの存在でしかないのに。

 人生で初めて触れる優しさに、少年の心は大いに震えた。

 そして、アリシアの優しさに触れるたび、少年の心は大きな痛みを覚えた。少年の歪んだ心は囁くのだ。


 ――あの女を殺して、食料を奪い取れ。独り占めしたほうがたらふく食べられるだろ?


 少年自身はもうそんなことを考えないのに、歪んだ魂の奥深くから、そんな考えが湧き上がってくる。だいぶ体の傷も癒えてきた。今ならば一瞬で、痛みすら与えることなくあの女の首をへし折れるだろう。今すぐ殺せ。

 少年はその衝動に耐えた。

 それは少年にとって初めての出来事だった。いつもならば、衝動のままに生きているのに。自分の感情が『それはよくないこと』と抵抗している。

 そんな少年を見て、アリシアが首を傾げた。


「どうしたんですか?」


「なんでもない」


「そうですか」


 そう言って、朗らかな笑顔を浮かべてくれる。

 その笑顔をずっと見ていたい、それが少年の願望だった。彼女と話す時間、彼女と一緒にいる時間が、少年にとってかけがえのないものになりつつあった。

 




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