第4話 捨てられた子犬さん
少年と話をするには遠いけど、かといって話ができないわけでもない――そんな微妙な位置に腰を下ろした。
少年は私のことなど興味がないのか、瞳を閉じてじっとしている。
……何をしているんだろうか?
「あの、どこか痛めていますか?」
少年の返事はなかった。
だけど、自分の仮説に自信はあった。というのも、歩き方に元気がなかったから。体のどこかを庇うような、滑らかではない歩き方だった。
……本人が答えたくないのなら、無理に聞くこともないけど。
事態は最悪だけど、少なくとも、ほっと落ち着ける状況になった。であれば、片付けられる問題を順番に処理していこう。
まずは狼に噛まれた傷だ。
放置はしておけない。
背負っていたリュックサックを下ろし、中から水筒とハンカチを取り出した。
ううむ……水は貴重だけど、仕方がない。少しだけ使って、まずは傷口を洗おう。続いて、ハンカチを引き裂いて傷口に巻く。
旅をしている間に、親が教えてくれたことが役に立った。
応急処置は終わった。
じゃあ、次の問題は――
この空腹だね。
ほっと一息ついたらお腹が空いてきた。
今度はリュックサックから、乾燥した硬いパンを取り出した。
実は、このリュックサックにはたっぷり食料が入っている。ずっと旅をしているので、街に到着すると両親がいつも補給してくれているのだ。
バリバリと音を立てて食べる。
ううむ……硬い。味も別に美味しくはない……だけど、こんなひどい状況でお腹が満たされるのはなんとも言えないほどの幸福だったりして。
思わず、ちょっぴり涙ぐんでしまう。
うんうん、わがまま言っちゃいけない。食べられるだけ、運がいいんだよ。
「おい」
突然、刃のように鋭い声がした。少年がじっと私を見ている。
「お前、食料を持っているのか……?」
「うん」
そのときだった。胸の奥底に強烈な嫌悪感が湧き上がった。私の感情ではない――これは、アリシアちゃんの感情だ。アリシアちゃんの意識を感じることはないのだけど、どうやら完全に消えてしまったのではなく、こうやって感情の塊のようなもtのが立ち上ってくることがある。
……アリシアちゃんは、少年のことを信頼していないらしい。あるいは、限りある食料を分けることに抵抗があるのか。
きっと、ここにいる人間がアリシアちゃんだったら、彼に食料を与えないんだろうな――
私は、その感情を押さえつけた。
「まだあるけど、食べる?」
私の言葉に、少年が驚く。
「……くれるのか?」
「うん、助けてもらったし。食べていいよ」
確かに、この少年には嫌悪感が強い。そもそも、本人が好かれたいと思っていないのだから、仕方がない。だけど、困っている人間がいたら、できる範囲で助けたいと思う。
それが、現代社会で倫理と道徳を学んだ私の考えだ。
そもそも、態度が悪いだけで、彼から嫌がらせを受けたわけではない。むしろ、助けてもらったことのほうが多いのだから。
少年がやってきて、私からパンを受け取る。
「パンのお礼……というわけでもないですけど、よかったら、森にいる理由を教えてもらえませんか?」
「ふん」
私の質問を鼻であしらった後、少年は礼も言わずに自分の座っていた場所まで戻っていった。そして、「かてぇ」「くそ、口に刺さる」などブツクサ言いながらも、無心でパンを食べた。
食べ終わってから、ぽつりと言った。
「とりあえず、狼から助けた礼だ」
素直にありがとうとは言いたくないらしい。
「それでいいですよ」
しばらくの沈黙の後、少年が再び口を開いた。
「……別に、この森にいたくていたわけじゃない。あのクソジジィに放り出されたんだよ。この森から生きて帰ってこい、帰ってきたらお前の実力を少しは認めてやろう、ってな。気を失うまでボコボコに殴られて、気づいたら森の中、食料なし、剣のみだ」
「修行の一環?」
「修行の一環」
なんとも無茶苦茶な修行である。根性論の極みみたいな感じだ。
「村に戻ろうにも、身体中が痛すぎて長く歩ける状態ですらない。回復を待ちつつここで休んでいるけど、食料もなくてな……」
「あのお爺さんは……?」
「俺の母親の親父だよ。剣術バカらしくてな、両親を亡くした俺を引き取って、自分の剣を叩き込んでいるんだ。自分が至れなかった極地に、俺を導くんだとさ。ありがたい限りだ。ありがたすぎるから――」
瞬間、彼の瞳の暗黒が黒さを増した気がした。
「いつかぶっ殺してやる」
……まるで、永久凍土の氷がそこにあるかのような寒気が背筋を滑り落ちた。
本気で、それをするつもりなのだろう――
だけど、
出会いの瞬間でさえ、苛烈極まりない修行の一端が垣間見えた。あの激しさを、彼は毎日のように受けているのだろう。そして、今は痛めつけられた上に森の奥に捨てられた。
それを知った上で、倫理の話などできるはずもない。
「ほらな、面白くない話だろ? だから話したくなかったんだ」
「大変だったんだね」
「……え?」
「大変だったんだね。辛かったね」
するとどうだろう、少年は顔を赤くして、プイッと横を向いた。
「うるせえ! 同情なんてするなよ!」
「ううん、同情したい」
この少年の、哀れさに触れてしまったから。過酷な環境を生きてきた彼に対する気持ちもあるけど――それは私自身でもある。私だって、訳もわからずこちらの世界に投げ込まれた。両親が善良な人なのは救いだけども、いきなり裕福だった家が取り潰されたりして辛い状況なのは事実だ。
だから、少年を切り捨てて終わる気にはなれなかった。この感情を、なかったことにはしたくない。
少しでも、彼の孤独な心に寄り添いたい。きっと寂しくて、泣きそうになっている心に。
「まだ体が痛むの?」
「…………」
少年は無言のまま、何も答えない。
俺の心に入ってくるな、近づくな、と言わんばかりに。
私は痛む足を庇いながら、少年に近づく。
「……おい、調子に乗るな。近づくな」
少年が刃のような視線を投げかけてくる。これ以上の『同情』を向けるのなら、何をされて文句はないだろうな? とばかりに。
怖い。
だけど、足を止めるつもりはなかった。
彼もまた、怖いのだ。今まで誰も守ってくれなかったから、彼の心は大きく傷ついている。傷を抱えているからこそ他人を退ける。もう誰にも傷つけられないようにと祈りながら。
――彼のすぐ近くまで歩み寄った。
「言っただろうが。調子に乗るなって」
少年が動いた、と思った瞬間――
ぐるりと世界が回った。
あ、と思った瞬間には、もう地面に押し倒されていた。太陽を背にした真っ黒な少年が、馬乗りになってくる。
「死ぬつもりか、ああ?」
少年が私の首を掴む。
「ぐっ……」
私は苦しみを覚えながらも手を伸ばし、少年の胸に触れた。
大丈夫だよ、私は君を傷つけたりしないから。救うとかは言わないし、君が嫌いな同情ばかりする。
だけどね、君の痛みを少しだけ取るくらいならできるんだよ?
私は、私の内に宿る聖なる力を解放した。
黄金の煌めきが私の手から溢れ出て、彼の体に流れ込む。
異変に気づいた少年が、私の喉から手を離した。血相を変えて私の手を払いのけ、そのまま頬を張ろうと手を振り上げる。
――その手が、振り下ろされることはなかった。
私が触れていた部分に手を当てて、声を絞りだす。
「こ、これは――?」
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