第3話 捕食者
意識の深いところで、何かと会話をした――
それは間違いないのだけど、今となっては、それがよくわからない。ただ、目覚めた私の心にあったのは『何かしらの重い使命感』だけだった。全く正気ではない。
その感情に突き動かされた私は旅用のリュックサックを背負うと、村近くの森へと向かっていった。
真夜中に、子供一人だけで、森の奥深くへ。
本当に、全く正気ではない。
平素の私であれば、絶対にそんなことはしないだろう。だからきっと、異常な状態だったのは間違いない。現に、その当時を思い出そうとしても記憶が曖昧だったのだから。
何かに導かれるように森をずんずんと進んでいき、私は目的地にたどり着いた。
そこにあったのは、祠だった。
お父さんが探していた女神の祠。
それは森の小さな空き地にたたずんでいた。苔むした石壁は明けかけた夜の光を柔らかく反射し、崩れかけた屋根には蔦が絡みついている。
小さな祠には長い時間の経過を感じさせる、女神像が静かに佇んでいた。
私は夢現のまま、女神像に祈りを捧げて――
我に返った。
すごくびっくりしたのを覚えている。なぜ、こんなところに? 幸いなことに、私は自分が宿を出て森を歩いてくる様子を曖昧であっても覚えていた。その記憶が追いついてくる。
だから、ここにいることは納得できた。
だけど、それだけでは何も解決していない。
――ここにいる理由は何なの?
それが自分の心の中にない。それがたまらなく恐ろしい。いきなり深い森の中に放り出された気分だ。
それ以前に、私は8歳の子供なのだ。こんな場所に一人でいて平気なはずがない。中身の私は大人だけど、アリシアちゃんの肉体が感じる心細さが急激に膨らむ。
「……帰ろう……」
幸い、記憶が蘇ったことで、帰り道もわかる。夜も明けたので、まだ薄暗くはあるけども、歩くには支障もない。
私は歩き出した。
とにかく、早く親に会いたい!
その気持ちを推進剤として両足を懸命に動かす。
問題は体力が保つかどうか。旅慣れているので、同世代の子よりは体力に自信はある。
私は勇気を持って一歩を踏み出した。
空は少しずつ明るくなっているのに、まだ森は薄暗くて息苦しい。物言わぬはずなのに、私を見下ろす木々から無言のメッセージを投げかけられているようだ。心がざわざわする。
「大丈夫、大丈夫……」
震える声で自分に言い聞かせながら、一歩、一歩。
静かすぎて、自分の鼓動が耳に響く。森の匂いが鼻をつく。生々しくて、なんだか森という生き物の腹の中にいるようだ。
一歩踏み出すたび、枯れ葉を踏む音が響く。まるで、誰かが後ろをついてきてるみたいな――
カサッ……カサッ……。
……?
え? 本当に音がする?
驚いて、足が止まる。自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。後ろに、何かが、いる?
スゥ、ハァと何度か深呼吸して――
ゆっくりと振り返る。
木々の間には何も見えない。生物の気配はない。
ううん……気のせい、かな?
それは変な話ではない。なぜなら、こんな森に一人でいるのだから。心にわだかまる不安が存在しない音を作り出しても不思議はない。
そう思いたいけど、心臓がバクバクしてる。また歩き出す。でも、音が近づいてくる。今度は木の枝が折れる音も……。
これは、空耳じゃない。
意を決して振り返る。
「誰か、いるの……?」
そこには、やはり誰もいなかった。だけど、素早く振り返ったためだろうか。茂みに隠れる黒い影を見た。
子供ほどの大きさの、何か。
何かが……いる……。
誰かがそこに潜んでいる……。
間違いない。
体が勝手に震え始める。ダメだ、このまま怯えていては。逃げないと。逃げるしかない。
私は何者かに背を向けて、一気に走り始めた。
その背中に向けて、大きな遠吠えが聞こえる。まるで、サイレンのような。この声は――
走りながら振り返ると、灰色の狼が茂みから飛び出すのが見えた。鋭い牙、大きな体、間違いない。
四足の獣が、文字通り獲物を狙う目で私に走り寄ってくる。
口元を濡らす唾液の輝きがおぞましい。
「オオウッ!」
ひと鳴きと同時、狼が矢のような速さで距離を詰めてくる。
私は止まらない。何かを考えるよりも、体が反射的に動いた。そうしないと殺される!
どこをどう走ったかもわからない。
ただただ必死に走った。
恐怖と疲れで泣きじゃくりながら、それでも足だけは必死に動かした。
「助けて! 助けて! パパ、ママ!」
そんなことを叫びつつ、森の中を走る。
だけど、子供の足で逃げ切れるはずもない。いつの間にか狼はすぐそこまで追いついてきた。
狼の体当たりを後ろからくらい、私の小さな体は大きく吹っ飛び、地面に顔面を擦り付けた。
狼が間髪入れずに距離を詰めてくる。
そして――
「ぎゃああああああああ!」
細い喉から森中に響き渡るような声が迸った。右足に激痛が走ったのだ。体を動かすと、私の足首に狼が噛み付いていた。
まずは動けなくする――
子供の骨など脆いもの。あともう少しで、足の骨は砕けたか、足そのものが食いちぎられていたか。
だけど、そうはならなかった。
「……るっせえな……」
ゆらりと、幽鬼のような何かが狼の背後に現れた。陽の光を背負っているせいか、真っ黒な影法師にしか見えない。右手を掲げると、太陽の光を浴びて剣が輝きを放った。
「肉になれや、こら!」
声とともに、斬撃が狼の横っ腹を薙ぎ払う。その一撃をまともに受けた狼は悲鳴を上げながら、遠くへと吹っ飛ぶ。
……あ、足首が助かった。まだすごく痛いけど……。
体勢を整えた狼が唸りながら視線を向ける。その脇腹はざっくりと裂けて、赤い血を流していた。しばらく牽制の視線を向けた後、不意に背を向けてあっという間に走り出した。
「くそっ、逃げられたか……万全だったら、一撃で仕留められたってのに」
身を起こして視線を向けると、そこに少年が立っていた。
どきんと心臓が波打つ。
黒髪黒目――瞳に絶望を灯した少年がそこに立っていたからだ。体も髪もあちこちが汚れている。周りを萎縮させる雰囲気は変わらないが、少しくたびれているのか、以前ほどの鋭さはなかった。
「あ、ありがとう……」
少年の冷めた瞳が私を見下ろす。
「あのときのガキかよ。なんでこんな森に?」
「その……よくわからないんです……」
「はあ? 意味わかんね。さっさと帰れ」
「それがその……狼に追われたせいで迷いまして……」
それは真実だった。
方々に逃げ惑ったせいで、もう自分がどこにいるかもわからない。村に自力帰還するのは絶望的だった。
「あの、あなたこそ、どうして森に……?」
「はあ? 俺のことなんて、どうでもいいだろう? じゃあな」
私のことを放って歩き出そうとする少年――
ろくでもない人間なのはわかっている。関わってはいけない人間だということも。なのに――
「ま、待って!」
思わず、声が出た。今の状況で、一人で生き残る自信などない。誰かでもいい。誰かが側にいて欲しかった。
「お願い、一緒にいて!」
足を止めた少年は不愉快そうに顔を歪めたが、
「……ついてきたいのなら勝手にしろ」
そう吐き捨てて、ずんずんと歩いていく。足を負傷した私を手助けしようという気持ちはないらしい。
それでも、同行は許してくれた。
それだけでいい。
この状況なのだ。一人でいるよりはずっといい。
それに、一人で負傷した女の子を残していくことに罪悪感を覚えてくれたのかもしれない。
であれば、意外と人がいいのかもしれない。
……残していくほうが悪魔という意見もあるけど。
「あ、ありがとう」
私は足を引き摺りながら、よたよたと歩いていく。少年は、あいも変わらず手助けはしてくれなかったけど、ときおり背後を振り返りながら、たまに足を止めてくれた。
うん、少しは気が使えるじゃないか。
しばらく歩いていると木があまり生えていない、開けた場所にたどり着いた。少年は持っていた剣を地面に置くと、木に背中を預けて腰を下ろす。
「休みたいなら適当に座れよ」
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