第2話 絶望にも似た瞳を持つ少年
10年前の頃、私は両親とともに巡礼の旅に出ていた。
教会との距離が近い貴族家であり、それは家の義務であり、古くから伝わる私たちの使命なのだった。
……当時、もう貴族家は取り潰されていたのだけど。
巡礼は、あくまでも国の安寧を祈るために行なっていた。もう貴族ではない以上、高い金を払い苦労してまで続ける理由などない。
だけど、私の両親は続けることを決めた。
それだけ真面目な人間であり、女神を敬愛し――捨てられてもなお、国と民のことを思っている人たちだった。
「確かに、もう意味も義務もないことだよ。だけどね、アリシア、大事なのは自分自身がどう思うかなんだ。私たちは続けたいと思った。それだけなんだよ。それがもし、誰かの幸せに繋がることなら嬉しいことはない」
私の両肩に手を置きながら、お父さんは笑顔でそんなことを言っていた。
そんな善良な人たちがアリシアの両親だった。
たった1枚しか持っていないクッキーを、困っている人に笑顔で渡せるような人たちだ。その愛情の深さはアリシアにも注がれていて、今世の両親の笑顔と暖かさは今の私の中に深く根ざしている。
私は両親に連れられて旅暮らしとなった。
幸い、貴族籍を抜けたときに『かなりの額の一時金』があったので、旅費で困ることはなかった。もちろん、金にあかせた贅沢など遥かに遠く、質素倹約で、まさに『巡礼の旅』だった。
そんな旅の途中に立ち寄ったのがラグーナ村だ。
どこにでもある、ありふれた村だった。本来であれば、記憶にすら残さないほどの――
だけど、そこには他に類を見ない『狂気』が確かにあった。
その日、私は泊まっている家を出て、村を散策することにした。
「いいよ、一人でお出かけしても。でも、森には絶対に一人で行っちゃだめだよ?」
お父さんの言うとおり、ラグーナ村の近くには深い森がある。
土地勘のない人間があの森に入れば、間違いなく出ていけなくなるだろう。
「はーい、絶対に行かないよー」
そう言って、村を出た。
一人で村を歩いていると、遠くから大きな声が聞こえてきた。何の声だろうと不思議に思い近づくと、そこでは木剣を持った黒髪の少年と老人が稽古をしていた。
少年は私より少し年上くらいだろうか。まだ成長期には遠いのに、日頃の厳しい鍛錬がわかるほど体が引き締まっていた。
少年は汗びっしょりで肩で息をしている。一方、老人は枯れ木のように細い体なのに、息一つ乱れていない。
「うおおおおおおおおおおおお!」
少年が大声を張り上げながら、本当に『殺さんばかりの勢い』で老人に向かっていく。
「ふん……雑な動きだ……!」
老人は吐き捨てると、少年の大振りを最小限の動きでかわす。
「何度言えばわかる! 体、腕、足――全ての動きの最短経路を意識するのだ!」
「何度も言ってやるよ! くたばれ、じじぃ!」
少年は暴言を吐き捨てると同時、強引に体勢を変えて、からぶった剣で再び老人へと切り込む。
老人の舌打ちが響いた。
「理のない動きをするな、と言っているだろうが!」
雷鳴のような声と斬撃が閃き、少年の剣が音を立てて宙を舞う。
「馬鹿者がァッ!」
憤怒した老人の返しの一撃が少年の小さな体を打ち据えた。
てっきり殺す発言に激怒したのかと思っていたら――
「できもせん大言壮語を吐きおって! 殺せるものなら殺してみろ! 早く殺せるほどの腕になれ! この未熟者がああああ!」
老人は血走った目で何度も何度も木剣を倒れたままの少年に振り下ろす。
死ぬ――死んじゃう!
「やめて……やめてください!」
二人だけの世界への闖入者に、老人が苛立った瞳を向ける。
「なんだ、貴様は……? 関係ないだろ。消えろ」
「そ、そんなことはないですよ……し、死んじゃいますよ?」
「この程度で死ぬのなら、この程度の人間だということだ」
老人は少年の頭を木剣で殴り飛ばす。
少年は呻き声をあげて地面に頭を落とした。
「やめてください! 村の人を、呼びますよ!?」
「ああ……、知らん顔をだと思ったら……呼んでも意味などないぞ。村の連中も知っている」
そして、ヘラヘラと笑いながら、自分の頭を指でつついた。
「いかれのジジイと、暴れん坊のクソガキ二人が住む面倒な家だってな。誰も近づきやしないよ」
「だったら、私が言います! やめてください! かわいそうです!」
「……誰が、かわいそう、なんだよ……」
掠れた声を吐き出しながら少年が身を起こす。頭から垂れている流血が顔を真っ赤に染めている。
「ひっ」
思わず声が漏れた。足が震えて、体がすくむ。
血を見て恐怖したのではない。
彼の、目だ。
血で濡れたその目から放たれる膨大な負の感情――それは、絶望なのか、あるいは……。
真っ黒な手に心臓を鷲掴みにされたような気分だ。どれだけ人を憎めば、あんな瞳になるのだろう?
「邪魔をするな、消えろ」
少年の言葉を聞いて、老人が楽しそうに笑う。
「誰も助けて欲しくないそうだ。さっさと帰るがいい」
そう言われてしまえば、どうしようもない。通りすがりの旅人にできることなど何もない。悔しさと恐ろしさ、他にも色々な感情がぐちゃぐちゃと混ざった気持ちを抱えて私は両親の元に戻った。
泣いている私を見て、両親は慌てたが、私は「こけただけ」と答えて真実を隠した。
嘘をつこうとしたのではなく、真実を口にできなかった。
前世を通じても、あれほどの負の体験はなかった。恐怖心が心を支配して、それは『口にしてはいけないこと』となったのだ。
それから数日が過ぎた。
あまり外出しなかったのもあるのだろう、記憶はだんだんと薄らいでいき、心に刻まれた暗い感情も少しずつ消えていった。
夕飯の席で、父親がこんなことを切り出した。
「この村に女神の祠があると聞いているんだけど、見つからない。諦めて次の目的地に向かおうと思う」
それがラグーナ村に来た理由だった。
貴族だった時代だと、どうしても旅をする時間が限られてしまう。なので、回る場所には明確な優先順位があり、その上位を中心とした移動となっていた。
だが、今は違う。今ならば、訪れるべきであったすべての場所を周り、祈りを捧げることができる――
アリシアの両親は本当の意味での『巡礼』を成そうとしていた。
それは自己満足ではなく、真の祈りを捧げたい、ただその想いだけの行為だ。
両親は、心の底から女神を愛する敬虔な信徒なのだ。
このラグーナ村には女神の祠があるという伝承があり、その真実を確かめるために両親はこの村に足を伸ばしたのだ。
「森の中は探したの?」
私の質問に父親が首を振った。
「近くはな……しかし、奥はまだだ」
「探さないの?」
「村人たちが乗り気じゃないからな……我々だけで向かっても道に迷うだけだ」
「諦めるの?」
「仕方がない。代わりに、今晩ここでいっぱいお祈りしておくよ」
父親と母親がにこりと笑う。
私は、この真面目な二人の両親が大好きだった。
――その晩。
本体であるアリシアは両親に似て女神様への敬愛を持っているが、残念ながら、今は無宗教ジャパンで育った私の意識が入っているので、混ざり合っていい感じに薄まっている。
いつものように軽く女神様に祈った後、パタリと眠りに落ちた。
意識が暗闇へと落ちていく――
そのとき。
まさに落ちようとする深淵の向こう側から、女の声が聞こえた。
――私の声が聞こえますか、アリシア。
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