大きな太陽の下で、儚い小さな太陽と。

海月いおり

屋上

「私なんて、この世に存在する意味がないんだから。関わらないで。放っておいて」


 そう言った彼女の左手首には、今日も包帯がグルグルと巻かれている。半袖の白いセーラー服から覗く、服に負けないくらい白い腕。そして包帯。全体的に白い彼女の胸元で緩く結ばれている赤いスカーフが、僕に何かを訴えるかのようにヒラヒラと揺れ動いていた。


「放っておいてあげたいところなんだけど、残念ながら僕は君の担任なんだ。君を見捨てないという義務がある」

「気持ち悪い。別に頼んでないし」


 ポツリ、ポツリと小さく雨が降る屋上。どんよりとした厚い雲に覆われた空が、容赦なく彼女を見下す。申し訳程度に設置されている屋根。それは雨から彼女を守ることもできずに、ポツリ、ポツリと白いセーラー服を濡らしていた。


兼永かねながさん。風邪引くよ」

「別に良いし。私が風邪を引いても、誰にも迷惑掛けない」


 ぎゅっ……と右手で、左手の包帯部分を握る。その部分を握ると安心をするのか、彼女は小さく溜息をついて折り畳んでいる膝に顔を埋めた。


 次第に弱まる雨。ポツッ……ポツッ……と雨脚が弱くなって来たことを確認すると、僕は屋根の部分から飛び出し、着ていたカーディガンを彼女の肩にそっと掛ける。最初こそ抵抗されたものの、しばらくすると抵抗を止め、静かに受け入れてくれた。


「兼永さんが風邪引くと、僕に迷惑が掛かる」

「なんで?」

「大切な生徒だから。風邪を引かれると困る」

「……はっ、気持ち悪いって。なに? イメージは生徒思いの熱血教師?」


 口角だけを上げて目が笑っていない彼女は、そう言いながらもカーディガンに手を掛ける。そして少しだけ震えている小さな手で、ぎゅっと握り締めた。




 今は2限目の授業時間だが、この学校の化学を担当している僕は空きコマだ。そんな貴重な空きを使って、今日もこの問題児さんを指導している。

 兼永さんは学校にはきちんと登校して来るものの、教室には足を運ばずに屋上へ行ってしまう。残念なことに、そんな彼女を気に掛ける教師なんてもうどこにもいない。担任である僕が最後の砦らしい。


「兼永さん、もうすぐ高校生活2回目の夏休みがやって来るけれど、何か楽しい予定とか組んでる?」

「……馬鹿じゃないの。そんなものある訳ないじゃん。私、死にたいんだから。楽しみも何もない」

「去年の夏休みは何をしたの?」

「去年は……親父と釣りに行った」

「良いじゃん」


 彼女は膝に埋めていた顔を上げ、少しだけ遠くを見つめ始める。その目には、小さな、小さな透明な雫が浮かんでいた。


「隣、座るね」


 許可を得ずに座り、ふぅ……と大きく息を吐く。横で唇を少しだけ噛んでいる彼女の目からは、浮かんでいた透明な雫が一筋流れ落ちた。僕はスラックスのポケットから小さなハンカチを取り出して、そっと差し出す。最初は躊躇った彼女だったが、無理矢理その手に乗せると、大人しく受け取って目元を拭ってくれた。




 しばらく静寂が続いた。いつの間にか止んだ雨の後に、今度は生暖かい風が頬を撫で始める。

 厚い灰色の雲に覆われたままの空を彼女は眺めていた。その空に僕自身も視線を向けてみる。そういえば、こうやって空を眺めたのは何年ぶりだろう。教師という仕事に追われ、何もせずに呆然と過ごす時間のことを、僕はすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。


「……荒瀬あらせ。今から私が言うことは、ただの独り言だ。だから何も言うなよ。そうして、忘れろ」


 初めて僕の名前を呼んだ彼女は小さく溜息をつき、小声で言葉を継いだ。小さくて聞き取りにくい言葉を、一字一句逃さないように、聞くことに意識を集中させる。


「……クソ親父さ、私を見捨てて出て行ったんだ。クソババアが腹に知らない男の子供を身籠っているのが原因。親父が出て行ってからうちに居座る、クソ野郎。あいつに私は両親を奪われた。昨日だってクソババアとクソ野郎の2人がさ、私に『邪魔だから出て行け』って言ったんだ。私の家でもあるのにさ……おかしいでしょ。どう考えても邪魔なのはクソ野郎の方だろ!」


 多感な時期に、不安定な家庭環境。何も言うなと言われた手前、僕は彼女に掛ける言葉は何もない。けれど、これは彼女なりのヘルプだと思った。彼女はきっと、やり場のない孤独と闘っている。


「私、17歳よ? それで今更、弟か妹? ふざけないで欲しいよね。それに、出て行けるものなら……出て行きたいさ」


 徐にポケットからカッターナイフを取り出し、左手に巻かれている包帯を適当に裂いた。ひらひらと舞い散る包帯の残骸。それに思わず見惚れていると、彼女は勢いよく刃を左の手首に突き立てた。


「あ、ちょっと⁉」


 気付いた時には刃の鋭利な部分が手首に刺さっていた。反射で彼女の体を押し、手に持っていたカッターナイフを遠くへ飛ばす。カチャッという落下音がすると、彼女は大きく震えだして、小さな子供のように声を上げながら涙を流し始めた。


「邪魔しないでよ! 私、死にたいの‼ 私が死んだって誰にも迷惑掛けないんだから!」

「死ななくていいよ。君に死なれると、僕に迷惑が掛かるから」


 彼女の腕を取り、先程のハンカチで手首を押さえた。ハンカチにじわっと血が滲んでいく。けれど全然深くないその傷は、絶対に致命傷とはならない。

 結局、彼女は寂しいのだ。湧き上がるその寂しさを、自分の手首を傷付けるという行為で紛らわせているだけ。死にたいなんて……彼女は本気で思っていない。

 その時、2限目の授業終了を知らせる本鈴が鳴り響き始めた。窓が開いている教室から、椅子を引く音が聞こえ始める。ありがとうございました、とやる気のなさそうな生徒たちの声を耳にしてもなお、僕は彼女の手首から手を離さない。


 次の3限目は3年1組の授業だ。教師としての僕は、今すぐにでも職員室に戻って授業の準備をしなければならない。だけど、ひとりの人間としての僕は、直感でこの状況のまま去ってはいけないような気がした。


「荒瀬、次の授業は?」

「あるよ。次は3年生」

「行けば? 待たせることになる」

「たまには待たせても良いんじゃない?」

「はぁ?」


 我ながら意味不明なことを呟いた僕は、彼女の手首は握ったまま、真っ直ぐ前を見た。そんな彼女も嫌な顔ひとつせずに、大人しく握られている。




 厚かった灰色の雲は徐々に薄くなり、所々の隙間から太陽の光が差し込み始めた。明るい一筋の光が、彼女の目に溜まっている透明な雫を輝かせる。


「昼休み、お昼ご飯を持ってここに集合」

「はぁ? 何よ、急に」

「それで、色々と聞かせて欲しい。君のことを」

「……荒瀬、担任としての義務でここまで来たのでしょ。そこまでする義理なんてないんだから。放っておいて」


 強がりの言葉とは裏腹に、僕が握っている手首は大きく震え始める。溜まっていた雫は止め処なく溢れ、胸元の赤いスカーフに濃い染みを作っていた。


「自分の思いをちゃんと相手に伝えられる子を、放っておくことはできない。第一、その涙。君が流しているその涙が、君の感情の全てを表しているんだから」

「どういうこと……?」

「そのうち分かるさ。取り敢えず今は、素直に甘えてごらん。僕は君を放っておかないし、君の話をなんでも聞いてあげる。死にたいなんて思う必要がないくらいにね」


 3限目の開始を知らせる本鈴が鳴り響き始めた。今頃、3年1組はどうなっているだろうか。そんなことを頭の片隅で思いつつ、それでも僕は彼女の手首を離さない。


「……荒瀬って、馬鹿みたい」

「馬鹿で結構。よく言われる」


 厚い灰色の雲はゆっくりと消え、空に青空が広がり始める。やっと自己主張ができるようになった大きな太陽は、ここぞとばかりに僕と彼女の2人を照らし始めた。

 彼女は僕が掴んでいない方の手を太陽にかざし、眩しそうに目を細めた。白い手の甲に見える血潮。それは、死にたいと願う彼女が今を生きている、紛れもない証拠だ。


「また自分を傷付けたくなったら、必ず僕に言いなさい。僕が君の光になるから」

「は……何、光って。うざいわ。気持ち悪いって」


 僕の腕を強く振り払い、彼女は勢いよく立ち上がる。雨で濡れていた白いセーラー服と赤いスカーフは、大きな太陽のお陰で少し乾いているよう。立ち上がった彼女はスカートを軽く叩いて、少しだけ僕の方に顔を動かした。


「……ほら、さっさと授業に行けよ」

「君はもう、大丈夫?」

「大丈夫かどうかは分からない。けれど、荒瀬。自分の言った言葉には、せめて責任を持てよ?」

「え?」


 勢いよく体を動かし、彼女は太陽に背を向けた。眩しい太陽が彼女の全てを輝かせ、僕の目に儚く映る。このまま消えてしまうのではないか——、そのような錯覚すら覚え始めた時、彼女はニヤッと、少しだけ口角を上げた。


「昼休み、ちゃんとここに来いよってこと」


 雨が降っていたのが嘘かのような青空が眩しい。容赦なく僕らを照らす太陽の下でひとつの小さな太陽も、儚げに光を放ち始めていた。









大きな太陽の下で、儚い小さな太陽と。   終

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大きな太陽の下で、儚い小さな太陽と。 海月いおり @k_iori25

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