第34話 伝説の歌姫

その時、奥に設けられた舞台に、着飾った豊麗な女性が上がってきた。

演奏者や客たちに笑いかけ、一礼した後、新たに伴奏が始まった。

それを遮らない程度の声で、黒髪男が言葉を添える。


「ここの劇場が誇る、伝説の歌姫だそうです。

ベアトリスという名前で、数年前は王都でも歌っていたとか……

今上演している演目にも出ていて、今日はこちらでも歌ってくれるようですね」


そして、歌が始まった。その人の声は若い頃、天使の歌声と賞されたらしい。

歳月はそこに、豊かな深みを与えていた。

人の心を蕩かすように、包み込むように、甘く広がる声だ。

ハープの音にも似た繊細な震えがあり、それがまた耳に心地良い。


「…………」

聞きながら、手元のカップに目を落とす。

これが貴族の世界、上流の住む世界なのか。

何だかふわふわと夢見心地のようになってくる。

これは、いけないかもしれない。

ふらっと視線を彷徨わせたところで気付いた。


黒髪男が、じっと見つめていた。

それに気づき、一気に冷水を浴びせられたようになる。

これは、駄目だろう。

先程から、相手のペースに巻き込まれつつある。

何だかんだ調子を狂わされて引き込まれてしまったが、良く考えればここは安全圏でも何でもない。

自分がしっかりしなくてどうするというのか。

カップを置いて居住まいを正し、相手の目を見つめ返す。

黒髪男もそれを受けて、どこか満足そうに微笑した。


「お聞きしたかったのですが。

この時期に国王陛下のもとを離れて、問題はないのですか。

ずっと陛下のお側近くで支えておられたと聞きましたが。

元帥閣下をお救いできたとは言え、まだまだ気は抜けないのではありませんか」


「この時期だからこそ、ですよ。

元帥閣下がご帰還なさり、今現在戦線はある程度沈静化している。

元帥閣下がお傍におられるからには、陛下にも滅多なことは起きないでしょう。

報告書と指示書は毎日やり取りしておりますよ。まあ、時々いい加減なものが来るのが考えものですが……」


言いながら不服そうに眉を寄せる。だがすぐに真顔に戻った。


「とにかく、これを機に少しでも後背の憂いを片付けておきたいのです。

戦に勝ったとて、凱旋すべき王都に帰れないでは意味がありませんからね。

身内に内通者がいるのなら尚の事。

ヴェスパータとカエルムを抑えられれば、とにかく最低限の足場は残る。


それにアルビウス公は、先代のノックス侯爵と親しくなかったですからね。

侯爵がいらっしゃれば良い牽制にもなるでしょう。

あの家はそもそも優れた人材を輩出することが多いですが、現当主も例に漏れず優秀な方ですから。

……聖女様のためだとお伝えすれば、快く引き受けてくださいましたよ。余程心服されたのですね」


「…………………」


その件については、沈黙を貫かせて欲しい。

探るような含みを乗せた声に何も答えずやり過ごした。


……とにかく、これである程度の勢力図は見えてきた。

要は中立派を崩したいというのがこの男の目論見なのだろう。

今は国王に反目する貴族派をどうにかするよりも、中立派を傾け、味方を増やす方が得策なのだろう。

そしてもしも国王を裏切って、アルビウスやドミニクとつるみ三人がかりでこちらに何か仕掛けてくるとしても。

そんなもの、元より太刀打ちできるような次元の話ではない。

少しでも危険を減らすには――、


「――よく分かりました。

それでは、長老様御本人に掛け合ってみましょう。

どれほど疎まれ、何度追い払われたとしても」

「本気ですか?あれほど手荒く歓迎されたばかりだというのに」

「他に方策はないでしょう。

神の御心を正しく叶えるには、それしかないのです。

長老様の御身の周りにおられる方々について、お教え頂けますか」


迂闊に住人を扇動する手は使えない。

伯爵本人も、アルビウス公とどこまで通じているか分からない。

であれば長老しかいないだろう。

年齢的にも、初対面の印象でも、何十も年下だろう相手に諾々と従う人種には見えなかった。

前領主ともなればその身辺警護も万全なものであろう。

こちらを蛇蝎の如く嫌ってくることを除けば、比較的安全な相手に思えた。

領民からの人望も厚いらしい彼を感化させられれば、風向きが変わる可能性もある。

恐らく相当困難だろうがやるしかない。


「成る程……では、役割分担ですね。各々務めを果たしましょう」


何が成る程なのか、黒髪男はそれだけ言って含み笑いしたのだった。


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