第26話 侯爵の訪問…って、ええっ?!
ノックス侯爵が遂に出兵の決定を下したことはすぐに知れ渡り、城下は大騒ぎになっていた。
戦いを前にした慌ただしさと賑いで、先日までよりも辺りに熱気が漂っている気がする。
「これも聖女様がいらして下さったお陰です」
「ああ、全くだ。聖女様が貴族様たちを動かして下さらなければ、一体どうなっていたことか」
「いいえ、私の行いなどただ些細な切っ掛けでしかありません。
選択し、主張し、侯爵様の御心を動かしたのはこの街の方々ですわ。皆様、どうかご武運を」
ヘリアンサスも出立までの僅かな間神殿施設と関係者に礼を言って回ることにした。
もうあの城に用は無いし、却って危険だ。
「やっぱり気が変わりました出兵やめますお前は死ね」とか言われたら堪ったものではない。
とにかく何とか運が味方し、この綱渡りを終えることができた。
快く迎えてくれたここの神官長は人徳者である。
どうして神殿は、こんな神官ばかりでは無いのだろうか。
とにかく残された短い時間の中で挨拶回りと世話になった相手への返礼をできる限りしておくことにした。
元々いつでも出兵できるよう、準備自体は整えられていたらしい。
命令が行き渡ればすぐだった。しかし、ヴェスパータからの出立を翌日に控えたその夜、ヘリアンサスは思わぬ相手の訪問を受けることになる。
「夜分の非礼をお許し願います、聖女様。訪問を受けて下さり恐縮です」
「滅相もございません、こちらこそ御礼を申し上げねばと思っておりました。ノックス侯爵様」
人払いを済ませた部屋で、そう言いつつもヘリアンサスは内心大いに警戒していた。
どうにか思惑通り引きずり込んだものの、人目のないこの場では何を言い出すか分かったものではない。
やはり前言撤回、お前はここで死ねとかそういう用件じゃないだろうな。
部屋に入ってきた侯爵は少し言葉を探すように目を彷徨わせたが、やがて一つ息を吸う。
そのままいとも優雅に頭を垂れた。
「本題の前に。まず我が麾下の度重なる暴言と無礼、代わってお詫び致します。どうかお許し願いたい」
その謝罪に、真っ先に思い浮かんだのは禿の顔だった。
ヘリアンサスは一気に緊張状態に入るが、対峙する侯爵の方も酷く真剣な顔をしている。
「聖女様への、神殿への数々の無礼。
聖女様におかれましてはさぞご不快だったでしょうが、どうかご寛恕を。
ホートンも――あれも、性根から悪い人間ではないのです。
私にとっては、家族と呼べる存在です。今はまだ頭に血が上っているようですが、じきに分かってくれるでしょう。
私からも説得します」
「…………どうか、顔をお上げになって下さい。
謝罪なさるようなことは何もございません。
私としては、侯爵様の有り難いお言葉にただ感謝するのみです」
誠意ある謝罪を、慎重にそう受け流す。
この謝罪を受ければヘリアンサスがやらかした不敬にも飛び火しそうだ。
優しく促しながら、早く話題を変えようと考えを巡らした。
「……これで、神の御意志は実現されます。
誰もが侯爵様の勇気と忠節を讃えております。
このご英断は後の世でも讃えられましょう。
元帥閣下も、どんなにかお喜びになることか」
実際会ったことがないので元帥が喜ぶかどうかは確信が持てないが、そう言っておく。
取り敢えず煽てて後に引けなくしておこうと思っての言葉だった。
だがその名前に侯爵は「そのような……」と、目を伏せて微苦笑する。
その顔はそれまでとは異なり、とても人間らしいものに見えた。
「早々に陛下と閣下にお味方できなかった、私はとんだ不忠者です。
……幼い頃、元帥閣下には一方ならずお世話になりましたから、個人的に駆けつけたい気持ちは山々でした。
ですが私は多くの臣民を抱える身であり、恥ずかしながら反対と不安を訴える家臣たちを取りまとめる貫目が足りませんでした。
……こう申せば不遜なのでしょうが、聖女様の訪れは渡りに船でございました。
これを機に説得を増やし、配下たちの感情を出兵の方へ向けようと、私の方からも手を回していたのですが。
そんな私の浅知恵など、聖女様は易易と飛び越えてしまわれましたね」
「…………いえ。あそこであの場の方々が訴えを聞き入れて下さいましたのは、侯爵様の統制とご尽力の賜物でしょう。
私のことなど些細な切っ掛けでしかありません」
ヘリアンサスの言葉にほうと息をつき、侯爵は気の緩んだように微笑む。
「……あの者は、ホートンは最も頑強に出兵に反対した者の一人でした。
あれは特に、中央貴族の方々と関わることが多く、考え方も似通った節がございまして……
ですが、流石は聖女様。聖女様はそのご高徳を以て、私も含むあの場の者たちの邪気を払って下さったのでしょう?
これで我らも一つにまとまることができます」
まあ大筋で間違ってはいないが、なんか変な方向に行っていないか。
困惑と、蘇った危険に焦るヘリアンサスは、侯爵の目と声が微妙に熱を帯びていることに気付けなかった。
「……そう、あの時。私は思ってしまったのです。なんて羨ましいと……」
「聖女たる私にとっては、何もかも神の仰せに従ってまでのことでして…………は?」
おい最後、今何て言った?
意味を咀嚼する暇もなく、一転して表情を引き締めた相手の顔に気圧されてしまう。
ここに来て痛感したが、貴族というものは大概顔が良い。
この侯爵はその中でも際立つというか、恐らく貴族的風貌とはこのようなものを言うのであろう。
ややあってそれは伏し目がちの表情へと変わり、憂愁といった言葉の似合う美青年の口から信じ難い言葉が飛び出した。
「あれほどに慈悲深く麗しい聖女様が、一瞬見せた激しいお顔付きが、私の心から離れないのです。
ホートンが聖女様の御力を一身に受け、あられもない姿を晒しまでしたというのが……ですから……」
「…………」
唖然と顔を見ると、何やら妙に浮ついていた。
初対面の凛然とした印象はどこにもなく、身振りもそわそわとした様子だ。
よくよく見るとその頬は赤みが差し、伏し目がちの目も微妙に潤んでいるようだった。
その目を前に、ヘリアンサスの背筋は凍りついた。
「――――私のこともどうか、殴って辱めて下さいませんか?」
「…………………………」
ヘリアンサスは泡を噴いて倒れそうになった。
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