第25話 聖女は賭けに勝利した

 分かっている。身分制度が深く根付くこの国で、お貴族様に手を上げるなどすれば何人も只では済まない。


一応聖女という存在は身分の外にあるものとされるが、だからといって貴族への暴行が目溢しされるかは別だ。

そもそも歴代聖女がこんな真似をした前例などないので、裁くにしても相当の手間と審議がかかることになろう。

今は衝撃から立ち直れずに誰もが絶句し、二の句に迷っている。

無礼者、この不届き者を引っ捕らえよと叫ばれる前に、何とか彼女は事態を打開しなければならない。


 その時外から――城下から、ざわめきが聞こえてきた。

実際それは今日、国境の変事が伝えられた頃から聞こえてきていた。

先程までは遠く小さなものだったそれが、段々と大きくなってくる。

遠いざわめきは徐々に言葉となり、意味を聞き取れるようになってきた。


 優れた聴力で「それ」を察知したヘリアンサスは、ここだと目を光らせた。

彼女はくるりと満座に向き直り、これまでで一番通りの良い声を響かせた。


「――であるからして、一刻も早く国境の窮状を救わねばならないのです!!!」


 何事もなかったように後を続け、辺りの壁や柱が震えるような勢いで喝破した。

更に言葉を継ごうとした時、慌ただしい足音とともに新たな人物が駆け込んできた。


「侯爵様、いらっしゃいますか!?」

「何用だ、今は――……」

「恐れ入ります!ですが侯爵様、一大事でございます!!」


 仰々しい前口上も礼法も全て略された。

どのような感情でか、顔を上気させた侍従は大慌てで貴族たちに報告する。


「城外に市民たちが押し寄せております!!

国境の変事に触発された模様で、このヴェスパータの総力を以てアダルベロを救うべしと……騎士たちまで!」


 息を呑む気配が相次ぎ、集った貴族たちの間に、動揺が広がっていく。

その空気を受けて、ヘリアンサスは『ここだ』と直感した。敢然と声を張る。


「――皆様、お聞きの通りです。

天意は既に下されました。

このヴェスパータの民意となって現れたのです。

それは偏に、この難事にあって国民全てが団結し、アルクスを救うことが神の思し召しであるからに他なりません」


 手当たり次第にそれらしい言葉を並べ立てる。

自分でもなんか、おかしな感じになっているとは思う。

感覚が鋭敏に冴え渡り、異様に気分が高揚する。

大袈裟な身振りを交えて高々と謳い上げながら、どこかそれを他人事のように感じている自分がいる。

これは多分、正気に戻ってからが色々辛いやつだ。

しかし今はそうするしかないのだ。


「さあ侯爵様、参りましょう。臣民の声に、貴方様は応えなければなりません」


 このどさくさに乗じて、無理矢理無かったことにしよう。

カツラ?何のことだ。訴えの勢いでちょっと神風は吹いたかも知れないが、直ぐ側で呆然としている禿とそれに何の因果関係があるというのか。

ここまで来れば後は野となれ山となれ、最早勢い勝負である。

諸々を神の威光で押し切って全てを有耶無耶にする。

貴族への不敬罪を力技で無かったことにする。

それ以外に生き残る道はない。


「侯爵様、貴方様は以前仰りました。

託宣を述べるのならばその前に、聖女としての奇跡を為せと。

これ以上の応えがございましょうか。

こうして神の御心は顕れたのですから」


 だがそこで貴族たちの内、我に返った何人かが怒りや不満を表明する。


「何だ、民だと?奴らが行きたがっているからどうだと言うのだ――」

「黙って閣下の御意が下るのを待つべきであろう、身の程知らずどもが――」

「やかましい……出兵の時期も是非も我らが決めることだ!あの連中をさっさと黙らせ――」


 だがその気勢も、この広間まで響いてくる大声の前では如何にも弱かった。

圧倒的な数によって半ば流れは変わっていた。


「侯爵様、今こそご英断を。

民の声に応え、アルクスを救うのです!!

それこそが貴族として、また領主としての道であり、貴方様が為すべきことでございます!」


 痺れを切らしたヘリアンサスは歩み寄り、ノックス侯爵の手を取り引きずり上げるように立たせた。

平時ならこんなことができるはずもないが、未だ動揺を引き摺っている取り巻きの反応は鈍かった。

侯爵を引き摺るように奥に突き進み、露台に出る。


 そこからは城下を一望できた。

広く突き抜けるような大空、そしてその下に詰め寄せ挙兵を口々に訴える群衆の姿は、息を呑むほど壮観なものだった。

詰めかけた人々に向けて、ヘリアンサスは侯爵を引っ掴んだまま笑顔で手を振った。

それを認め、一際盛大な大歓声が上がる。

これで良い。何をしたかと言うと、ヴェスパータの出兵を、今城壁付近に押し寄せている民衆を巻き込んで既成事実化したのだ。

こうまですればもう逃げられまい。

とんでもなく酷い悪徳業者になった気分だが、構っていられるか。

こっちは命が懸かっている。


 その時、黙って城下を見下ろしていた侯爵が口を開いた。


「…………聖女様」

「何でしょうか、侯爵様」


 衆人環視の中だ。民衆への笑顔を浮かべたまま声だけで答える。

妙な真似をするようなら見えない場所を思い切り抓るつもりだった。

一度貴族を殴ったのだから二発も三発も同じようなものだ。

だが相手の顔には怒りは無かった。代わりに、ヘリアンサスの知らない何かが滲んでいた。


「……私はようやく目が覚めました。

何を惑っていたのでしょう。

何よりも確かなものが此処にあったというのに。

この鼓動が、答えではないですか――」


 その目は酷く深い色を湛え、何を考えているのか読み取れなかった。

侯爵はそのまま、至って優雅にヘリアンサスの手を取り、その甲に唇を落とした。


「天に選ばれるとはまたとない栄誉。

我が名にかけて、仰せに従うと誓いましょう」


 その演出に、一瞬辺りが静まり返る。

だが次の瞬間、さらなる大歓声が空気を震わせた。


 ヘリアンサス自身も分かっている。こんな勢い任せのハッタリで万人を納得などさせられるわけがない。

それがヴェスパータの貴族たちの総意などであるはずがない。


 けれどその一言で、全ては決したのだった。


 ヘリアンサスは賭けに勝利した。

ノックス侯爵が率いる手勢はすぐさま国境に向かい、国王軍に加勢することとなった。

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