死んでゆく男

クロノヒョウ

禁句






 昼休み、課長に誘われランチに行くことになった。できるだけこの人とは会話をしたくなかったが仕方ない。これでも一応上司なのだから。ああ、これでもと言うと語弊があるかもしれない。課長は仕事もできて周りからの信頼もあつい真面目な仕事人間だ。ただ、俺が今この人の奥さんと不倫しているから極力話したくないだけなのだ。まさかこの人が何かに気づいて疑っているとは思えないが、気をつけなければならない。面倒だ。

「そういえば、お前彼女いたよな? どうだ? 最近」

「どうって言われても、べつに、普通です」

 いきなり彼女の話をしてくるとは驚いたが、まあ、疑われてはなさそうなのはよかったと思い胸を撫で下ろした。俺にはちゃんと付き合っている彼女もいる。そうだ。ちょっとだけ魔が差しただけ。彼女がいながらも俺はこの人の奥さんとも関係を持っているのだ。

「そろそろ結婚とか考えているのか?」

「どうっすかね。まあ、おいおい」

「じゃあ、この話は知ってるか?」

 少し遅めの昼休みだったからか、客足もまばらな蕎麦屋はいつもと違って静かだった。課長越しに見えるテレビに映っているのは古い洋画だろうか。スーツを着たデブの男がずっと何かを食べている。

「彼女や奥さんに絶対に言ってはいけない言葉があるそうだぞ」

「なんっすかそれ」

「なんだ、今ネットで話題になってるのに、知らないのか」

「ええ、まあ」

「教えてもいいが、これを聞いてしまうと呪われるらしい」

「はあ!? 課長、そんな都市伝説みたいなこと信じてるんですか?」

 真面目な課長の意外な一面を見て俺は驚くばかりだった。

「聞きたいか?」

 ああ、真面目すぎる性格だからこういうバカげた話も信じてしまうのだろう。まったく。だから俺なんかに奥さんを寝とられるんだよ。まあ、課長にしてみればちょっとした事故にあったようなものだろう。運が悪かったんだな。

「はい、聞きたいです」

 笑いとばすこともできたが、ここは上司をたてるべきだろう。俺は蕎麦をすすりながら頷いた。

「もしも彼女や奥さんに浮気を疑われたとしても、『ちょっとだけ』という言葉は言ってはいけないぞ」

「ちょっとだけ? いや、そんなの普通に言ってますけど」

「それが不思議なことに、これを聞いた時点でこの言葉は禁句になり呪いが発動するそうだぞ。お前も聞いてしまったから呪われたぞ。気をつけろよ」

「そんな、でも、あれですよね? 浮気を疑われなければいいんですよね?」

 本当にばかばかしい話だ。だが怖がっているフリをしなければ。そうでないとこの人があまりにもかわいそうに思えてきた。

「言い訳でなければ『ちょっとだけ』は普通に言ってもいいそうだ」

「へえ」

 それからは他愛もない話をしながら蕎麦を食べ終えた。課長の後ろのテレビの画面の中ではさっきのデブの男が車に乗っていて、どうやら気味の悪い老女をひき殺してしまったようだった。



「この時間に会いたいだなんて珍しいのね」

 仕事帰りに課長の奥さんを呼び出してホテルに入った。昼休みのあの課長のせいで、今日はなんとなくこういう気分になってしまったのだ。

「いいだろ、たまには」

「先にシャワー浴びてくるわね」

「ああ」

 いつもなら平日の、俺が外回り中の昼間にしか会わない。だが課長は毎日遅くまで残業している。よく考えればこの時間も使えるじゃないか。

 バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。俺もネクタイを緩めてから上着を脱ぎ、冷蔵庫から缶ビールを取り出すとすぐに喉の奥へと流し込んだ。

「ん?」

 テレビでもつけようかとリモコンに手を伸ばした時、横に置いていたスマホが音をたてた。

「はい」

 電話は彼女からだった。

「わ、ごめん、もうすぐ終わるから。あとちょっと」

 今日は彼女と約束していたことをすっかり忘れていた俺は慌てて頭を下げていた。

「ごめんって。急に課長に頼まれてさ。ちょっとだけだから。一時間くらいかな。うん。ええ!? 本当だって。残業だよ、残業。浮気? ハハッ、まさか。ね、ちょっとだけだから。うん」

 電話を切った俺は大きく深呼吸していた。確かに俺はちょくちょく約束をすっぽかすことはあるが、まさか彼女に浮気を疑われるなんて。今日はなんだか本当についてない。

「ん?」

 切ったスマホのトップページに貼り出された今話題の記事の文字に目が止まった。

「まさか」

 その記事を読んだ俺は背中に悪寒を感じた。

「グォホッ……」

 不意に腰の辺りに痛みがはしった。何が起きたのかわからないままゆっくりと振り向いた。

「ヒッ」

 びしょ濡れの裸のままの課長の奥さんがすぐ後ろに立っていた。そしてベッドに倒れこんだ俺の喉に何かを突き刺していた。痛みが背中、喉、そして胸にも。無表情のまま課長の奥さんは何かに取り憑かれているかのように俺の胸に何度も何度も尖った物を突き刺した。ああ、これは冷蔵庫の上にあったアイスピックだ。激しい痛みを感じながら俺の脳ミソは冷静にそんなことを考えていた。しまった。『ちょっとだけ』は禁句だった。なんだ、課長が蕎麦屋で言っていた呪いは本当だったんだ。いや、課長がわざわざ俺に呪いをかけたんだ。今流行りの呪いらしい。さっき見た記事によれば浮気の疑いのある相手に蕎麦を食べさせながら禁句を伝えると呪いが発動する、だったっけ? くそっ、課長は全部知っていたのか。知っていて俺をランチに誘って呪いをかけたんだ。きっとそうだ。くそっ、やられた。でも、これじゃあ課長の奥さんも犯罪者になっちまうぞ。いや、課長はきっと裏切った奥さんのことも呪いたかったのかもな。どのみちもう俺は死ぬんだ。ああ、そういえば、蕎麦屋のテレビの、あの映画、なんていうタイトルだったっけ。あのあと、スーツの男がどんどん痩せていって。ああ、血で染まったワイシャツが肌にこびりついて気持ちわりぃ。どうにかしたかったが、もう俺の体は言うことをきいてくれそうにはなかった。



            完






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