瓦礫の舞台

松岡清志郎

瓦礫の舞台

 これは、負けに負けたもんだ。


 焼け焦げた座席に座り、背嚢を下ろした。

 新帝国劇場。名優たちを生み出した大御殿も、爆弾にかかっちゃ形無しかと、肺の底から息を吐き出す。

 真っ黒に灰と埃をかぶって、何とか面影だけを残したホール席。そこから見えるのは在りし日の煌びやかな舞台や時代を彩るスタアではなく、一面の瓦礫の山と、どんよりと広がる灰色の空。

 考えてみれば、劇場なんて石造りの中にぽっかり空いた大穴だ。ここまで無残に潰れるのも、当然と言えば当然かもしれない。


「……まったく、やりきれねえな」


 爆心地になったと聞いてなお、なぜかここだけは無事に残っていると信じ込んでいた。いやそれどころか、ここならまだあの頃のきらきらとした舞台が続いているとさえ、本気で思っていたらしい。

 当たり前だ。我妻亀一わがつまかめいちが「経義」を演って、常盤真理子ときわまりこが初舞台を踏んだ場所だぞ。マリア・セラスもここで歌ったんだ。

 俺だって今も目をつぶれば、客席から体中にぶつかるようなあの拍手が聞こえてくる。

 せめて涙でも流せれば画になったろうに、なぜだかそんなことも無い。

 老いのせいなのか、それとも負けるというのはこういう事なのだろうか。

 この景色を見たとたん、まるで風船がしぼんでいくように体の奥底が萎えていく。


「……常さん? あんた、常さんか?」

「……啓治?」

「ああ、やっぱり常さんか。……お互い、よく生き延びちまったなぁ」

 

 突然耳に入った声に振り返れば、そこには斎藤啓治さいとうけいじが立っていた。

 頬はこけ、見慣れたの新帝劇の制服とピカピカの革靴の代わりに、薄汚れた国民服とズックを身に着けて。

 ピシっと伸びた背筋は力なく曲がって、なんとなれば役者以上に自信と誇りに満ち溢れていた表情も、いまや見る影もなく弱弱しい。


「搬入口から入ってきてみりゃあ、行儀よく席についてる奴がいるもんだから驚いたぜ。まぁ裏手からホール席が見えることの方が驚いたけどもよ」

「はッ。搬入口もホール席もあるか」


 こんなことになっても決して正面から入ろうとしないのは、慣れ親しんだ習慣なのか、それともかつての仕事に対する矜持なのか。

 いずれにせよ、前も後ろもないような瓦礫の山だ。痛々しく滑稽としか思えない。


「あーあ。見ろよ常さん、このザマ。大火でも地震でも生き残った天下の新帝国劇場も、海の向こうの爆弾には敵わなかったたらしい」


 そう言って、三十余年の間、この場所を支え続けた叩き上げの劇場マンは、大儀そうに腰を下ろすと、魂までも吐き出すような深い息を吐いた。

 確か二つほどしか違わなかったはずだが、ずいぶんと老けたその横顔に、思わず自分の顔に手を伸ばす。


「しかしここにくりゃあ、見知った顔の一人くらいは見つかるかと思ったが……。まさか天下の大俳優、大崎常彦様がいらっしゃるとは思わなんだ。しかも板の上じゃあなく、客席こっち側に座ってるとはね」

「……こんなご時世に役者も何もないだろう。そもそも舞台も客席も見分けのつかない、めちゃくちゃな瓦礫の山じゃあないか」

「くくっ、違いねえ。三階までぜえんぶ更地だ。大幕も灰になっちまったし、見ろよ、あそこに大階段の飾りがあるぜ。スタッフ・ルームまで吹っ飛んでらあ」

 

 そう、愉快そうに笑っているが。

 この劇場の生き字引のようなこの男とも長い付き合いだ。その胸の内を知ることなどもちろんできないが、俺よりよほど堪えているのは想像に難くない。


「……息子さんは?」


 お互い兵役にとられるような年ではなかったが、確かこいつには子供がいたはずだ。俺がここでシェーグレンをったころ生まれたはずだから、おそらくニ十歳は超えていると思うが。


「さぁてねえ。最後の手紙はどっからだったか……。どのみち帰ってはこめぇよ」

「そうか……」

 

 しばらく二人で黙りこんで客席から舞台の跡を眺める。

 目をつぶれば、いや開けたままでも。脳裏に浮かぶのはこんな灰色の景色じゃあなく、真紅の絨毯に暑いくらいの照明、そして板の上に届く万雷の喝采。

 当然だ。国の未来も、荒れ果てたこの景色も。現実の全てを取り去って夢を見せるのが劇場なのだから。


 ――……んな……でるわけ……けるな!


 瞼の裏で過去の栄華を思い返していると、不意に思い出の中の声が聞こえた。ほんの数年前の出来事なのに、遠い昔のように感じるが。

 ああ、そういえばあれは新帝劇の楽屋だったな……。



***********



「そんなものに出るわけないだろ、ふざけるな!」


 よく通る声でそんな事を叫ぶものだから、思わず辺りを見渡してしまった。こんなこと聞かれたらただじゃあすまない。

 本人もさすがにまずいと思ったのか、口を押さえて青い顔をしている。だがそれでも怒りは冷めない様子で、俺たち二人の顔をにらみつけた。


「本当は常さんも亀さんもわかってるでしょ。今更こんな映画撮ったって意味がないって。……こんなもんに二束三文でキャメラ回してなんになるって言うんだ」


 新帝劇付けで届けられた、粗末なザラ紙で刷られた『銃後の暁』のシナリオを床にたたきつけて、佐多さたあきらがつぶやく。

 若手のそんな様子に俺と亀一かめいちは思わず顔を見合わせると、二人して深く息をついた。


「そうは言うがな。じゃあなにか明、おめえこの話断るってのか?」


 銀幕の向こうの優男・我妻わがつま亀一かめいちの流し目ではなく、任侠のような荒々しい素の表情でにらみつけられ、明が言葉に詰まった。


「おめえが考えてるようなこたあ、俺も常さんも重々承知だ。それにおめえも駆け出しってんじゃあねえ。今じゃあ押しも押されぬ若手のスタア。手前でケツ拭くんなら仕事選んでも俺だって文句はねえさ。だがな」


 亀一はそう言ってシナリオを拾いあげると、表紙の旭日を指した。


「こいつぁ畏れ多くも軍令部直々の仕事だぜ。なぁ明、おめえのために言ってんだ。ここはぐっとこらえてだな」

「だから嫌だって言ってるんですよ! 国威発揚だか何だか知らないけど、そりゃあ俺だって勝てるもんならいくらでもやりますよ。でもね、舞台だって薪にして、使ってる釘まで弾にして。それでもこの戦況がザマなら……」

「明ッ!」


 亀一の鋭い叱責に、明が黙り込む。

 つい熱くなったじゃあすまされない叫びに、思わず俺の背に冷や汗がつうっと流れた。

 

 明の言わんとすることは、口に出さないだけで誰も彼もみんな承知だ。言ったところでどうしようも無いのと、恐ろしいから黙っているだけで。

 そしてそれじゃあ正気でいられないから、誰も彼も酔うためにこんな映画撮ってそれに縋らなきゃあいけない。

 だけど俺たちは酔わす側だから、どうしたって素面のまんま。

 だってそうだろう。普段着る物にも困ってるのに、それでも衣装の軍服だけはピッカピカだ。駆け出しの若手はみんな兵隊にとられてんのに、チラシの役者は皆笑顔だ。


 これで俺たちにどう酔えって言うんだ。


 わかってる。明の声は俺たちみんなの声だ。だが、それでも。

 

「いいか、明。俺はなあ、戦況がどうとか、意味がどうとか言ってんじゃあねえんだよ。この先、全部終わった後もおめえが舞台に上がれるかどうか、そういう話をしてんだ。ロートルのお節介に聞こえるかもしれねえけどよ。……結局な。俺はこの先も佐多明の芝居が観てえのよ。板の下では生意気なガキが、いっぺんに大役者になる痛快な姿をよ」

「……亀さん」


 明はそれだけつぶやいてじっとうつむき、亀一がやれやれと肩をすくめる。

 俺はそんな二人のやり取りを、なぜだか舞台でも眺めるように見ていた。

 楽屋を一瞬だけ沈黙が包む。……そう、一瞬だけだった。


「……それでも俺ぁ、これには出れません。この先どうなろうが、ここで折れたら俺は役者続けらんねえ」


「おい、てめえ!」


 明の胸倉をつかみ上げて、亀一が叫んだ。


「……もうよせ、亀」


 激高した亀一を引き離して、明の眼を見た。どこか生意気ないつもの目つきじゃあなく、舞台の上でだけ見せる、燃え立つようなその瞳を。


「……明。お前わかったうえで言ってるんだよな」

「はい」

「亀一の言いたい事もわかるよな」

「……はい」

「そうか……。いいぜ、お前もガキじゃないんだ。後悔しないってんなら好きにしろよ」

「常さんッ!」


 亀一が俺を物凄い表情でにらみつける。

 だってしょうがないだろ亀一。こんなご時世、我を通せるってのも幸せじゃないか。それに、俺にはどうもお前らの言う、全部終わった後ってものがあるとは思えないんだ。


「常さん……、亀さんも。すいません。そんで、ありがとうございます」


『銃後の暁』のシナリオを置き去りに、佐多明は新帝国劇場の楽屋を後にした。


 あいつを見た最後は、その時の背中だ。



********



「我妻亀一に佐多明。みぃんな死んじまって、ここの看板張れるような役者はあんただけになっちまったなあ」


 啓治の声で夢から覚めた。

 眼前に広がるのは楽屋も何もない、新帝劇の瓦礫の跡。

 無駄なフィルムをいくつもとって、結局残ったのは焼け野原だ。このありさまを見れば、あの時の明が正しかったのだとよくわかる。


「……看板もなにも、全部焼けちまっているじゃないか」

「馬鹿言え。焼けようが崩れようが、ここは新帝国劇場であんたは大崎常彦だ。これだけお膳立てが整ってんなら、あとは自然と幕が上がるさ」

 

 ぬけぬけとそんなことを言うこの男に、やたらと腹が立った。

 板に上がったことも無いくせに。お前はいつだって袖から見ていただけじゃあないか。


「……何が役者だ。駆り立てるだけ駆り立てて、最後にこんなザマじゃあ、いったい俺がやってきたことはなんなんだ」

「常さん……」

「なあ、啓治。俺も亀一も、負けるとこまではわかってたんだよ。キャメラの前で兵隊の恰好してさ、どんな勇ましいことしたってどうせ勝てやしないんだってのは、監督も脚本もキャメラマンも、俺達だってみんなわかってたんだ」


 海の向こうで兵隊が命を散らしているのと同じ時間、俺たちは越川の撮影所で突撃の真似っこを撮っていた。勇敢に命を捨てに行く兵隊を演じていたんだ。

 役者という仕事を、演じるという事に命を懸けてやってきた。三十年以上、戦争なんて影も無いころから。

 死ぬ役だって何度もやった。そのたびに自分が死ぬんだと、その生涯を終えるんだと、舞台の上では本気でそう思ってやっていた。そのことに誇りを持っていた。

 だけど、今まさに死んでいる奴らを演じるのは、どうにもつらかった。つらすぎた。


「国威発揚でも何でもいいさ。それで奮い立って、引き分けとはいかないまでも、終わった時に少しでも無事な者が増えるんだと、そう信じてやってたんだ。……なのに、こんなことになるとは思わないじゃあないか」


 見ろよ亀一。目の前に広がるのは一面の焼け野原だ。遠目に見える人々も、生きているのか死んでいるのかもわからない。


「こんなに全部壊していく必要があるのか? そうなったのは俺たちのせいか? なあ、啓治。俺たちみんなが明みたいに死んでれば、舞台も観客も焼けずにすんだのか?」

「常さん……」


 従わなきゃあ目を付けられるから出たんじゃない。

 ただ、俺も酔いたかった。酔えなくっても演じていたかった。何十年もかけて培ったものに縋らないと、こんな世界で立っていられなかっただけなんだ。

 それがそんなに悪かったのか?


 それっきり俺も啓治もすっかり黙り込んで、またさっきの様に灰色の景色を眺めた。

 目をつぶっても今度は夢にも入れない。ただの闇が広がるだけだった。


 

「……す、すみません。まさかここが新帝国劇場じゃ、ないですよね?」


 突然、そんな声が聞こえた。

 そちらを見れば、青年が一人、これまた国民服に汚れた背嚢を背負って、震える脚で立っていた。

 二十四、五歳くらいだろうか。その瞳には諦めと怯えと、つまり今この国の全員が抱えているものがくすぶっている。


「……いや、合ってるよ。もっとも新帝国劇場「跡」だがね」

「……そんな」


 吐き捨てるような俺の言葉を聞いて、青年はおぼつかない足取りで更地になった舞台の跡まで行くと、力尽きたように膝をついた。

 しばらくすすり泣く声が、舞台跡にこだまする。

 見ちゃいられない、聞いちゃいられない。でも、いまはどこに行ってもこんなものしか見られないし、聞けない。


 嫌になる。俺も啓治も、目の前の男にかける言葉が見つからない。

 胸の奥の奥まで探しても、他人様にかけられるような言葉など、何もなかった。


「……いつか、ここに立ってみたかったんです」


 背中を震わせながら、涙交じりに青年が口を開いた。それは俺たちに向けてというよりは、この劇場の瓦礫一つ一つに恨み言を吐くような、そんな声だった。


「浜岡の映画学校に入った年、戦争が始まりました。最初は他人事だったんですけど、すぐに授業も無くなって。……紙切れ一つで地獄に行かされて、役者になれず死ぬのかと思っていた矢先、あの放送を聞きました」


 その話を、俺たちは口をはさむことも無くただ聞いていた。

 啓治は何を考えているのだろう。息子のことか、それとも劇場か。

 俺は……。曲がりなりにもあの青年の夢の先にいた俺は、何か言うべきなのか。そうだとして、何を言えば良い?


「空襲があったことは聞いていたから、藤倉で降ろされて真っ先にここに来たんです。そしたら……。やっと帰ってこれたのに、あんまりだこんなの」


 そしてまたすすり泣く音だけが、瓦礫の山に響いている。

 あの時の明と同じくらいの年だろうか。もしかしたら啓治の息子とも近いかもしれない。


 そんな彼を見ていられなくなったのだろうか。啓治が不意に立ち上がってどこかへ行った。俺はそちらを見ること無く、震える青年の背中をじっと眺めていた。


 また、明の最後の姿を思い出す。

 美化されているのかもしれない。だが同じ背中でも、今目の前にあるそれと、明の背中はまるで違った。

 明は震えもせず泣きもせず、役者としての誇りを抱いてそのまま死んだ。

 命を拾った青年は、破られた夢の残骸を突き付けられ無残に泣いている。

 全部出来の悪い舞台のようだ。まったくもってやりきれない。


 どこかで、燃えかすが爆ぜる音がした。誰かが焚き火でもしているのだろう。

 こんな世界でも、まだ生活が在って、腹が減るのだということに酷く違和感を覚えた。


「……常さん」


 戻ってきた啓治の声に、振り返る。

 灰を蹴飛ばし息を切らせながら、こいつは何かを抱えていた。煤で汚れたそれは……。

 

「舞台がある」


 啓治は目の前の瓦礫の山を指さした。


「役者がいる」


 抱えたそれを、くたばり損ないの俺に投げ渡す。


「観客が来た。幕が上がるぞ、常さん」


 震える青年の背中を見ながら、啓治は俺に言った。よりにもよって、こんなものを渡して。


「……ふざけるのも大概にしろよ」


 怒りに震える手で何とかそれを、焼け跡から掘り出してきた将校の衣装を、地面にたたきつけた。それだけでは足りず、きらきらと胸元に光る偽の勲章を踏みつける。


「ふざけちゃあいないさ。ここは劇場で、あんたは大崎常彦で。そして、あそこに夢も見れなくなっちまった観客がいる」


 そう言うと啓治は俺の胸倉をつかんで無理やりに立たせ、ぼさぼさの髪を撫でつけ、括ろうとする。


「やめろ!」


 その手を払いのけて突き飛ばした。怒りで目の前がチカチカする。倒れ込んだ啓治はすぐによろよろと立ち上がり、今度は俺が踏みつけていた衣装を拾い上げて、その汚れを払った。


「あんたが役者やってきたみてえに、俺も一生かけてこの劇場を守ってきた。あんたらが羽伸ばして演じられるように、こん中にいる間は客が外の事忘れられるように」


 俺たちを誰よりも近くで見てきたその男は、ボロボロの手で俺に衣装を突き付けて言う。


「守れてないだろう! 舞台? 笑わせるな、こんなもん、ただの、こんな……!」


 あの華やかなころの舞台を、この男の事を知っているからこそ言葉に詰まった。

 脳裏に浮かぶのは明の背中とさっきの青年の背中。手に持った衣装の重さは俺をどこかに引きずり込もうとするみたいだ。


「いいか常さん、もう一度言うぞ」


 真っ直ぐ、真剣な視線。今まで舞台で見てきたどんな大役者にも負けない、力強い眼差しで、斎藤啓治は俺を見る。


 こいつは、なんだ。

 役者でもない。かといって客でもない。劇場を支える影。


「焼けようが崩れようが、ここは新帝国劇場だ。そんであんたは大俳優、大崎常彦だ。それなら客が満足しないで帰る事なんて、ありえないんだよ」


 舞台の守護者は俺の両肩に手を置いて、神が宣託を下すかのように、そう言った。



*******




 新帝国劇場。


 学校では若手の役者の登竜門だと教えられた。今を時めくスタアたちは皆あそこで主演を張ったことがあるんだと。

 僕も一度だけ、見たことがある。その外側だけ。

 真四角で奇妙な建物。劇場の事を「箱」と言うが、まさに巨大な箱のようだった。聞けば一度に二千人の観客が入るらしい。二千人!

 それがみんな一つの舞台を観るのか。

「これからはどんどん舞台も装置も巨大になっていく。二千人ごときで腰が引けていてはいかんぞ」

 かつてその大舞台にも立ったという先生は、僕の背中を豪快にたたいて笑ったのだ。


 なのに今、それはすべて灰になってしまっていた。命からがら帰ってきたのに。

 二千人の大舞台を、もう僕は一生見ることができない。



「名と所属は」



 憧れの舞台の残骸の前ですすり泣く僕に、いきなり大音声が浴びせられた。

 軍隊で染みつけられた慣習で反射的に立ち上がり敬礼した途端、腰を抜かしそうになった。

 瓦礫になった舞台の上には、胸元に勲章をいくつもつけた、将校が立っていた。

 定規で引いたみたいにまっすぐな立ち姿、射貫くような鋭い眼光。

 さすがに軍服や顔は煤で汚れていたけれど、その雰囲気だけではっきりわかる。

 あの人は、僕みたいな一兵卒なんてとてもお目にかかれない……銀幕の向こうでしか見たことないような、物凄い大将校だ。


「名と所属を述べよ」

「に、新村二等、歩七……い、いいえ、ほっ、歩兵第七隊所属であります!」


 もう一度静かに尋ねられ、僕は今までの涙が引っ込むくらい震えながら、つっかえつっかえ声を出した。

 まったく、これで役者志望だなんてお笑いだ。


「声が小さい! 他人に伝える声は腹から出せ!」

「新村二等! 歩兵第七隊所属であります!」


 命じられたとはいえ、思わず声を張り上げてしまった。怖い、どうしてこんなことに。


「よし。新村二等、ここはどこか。述べよ」

「ハッ。ここは……。ここは新帝国劇場であります!」


 その名を口にした途端、目の前の人に抱えていた緊張も恐怖も、一気にすぅっと冷えていった。

 ……そうだ、全部終わったんだ。この人も偉そうにしてたって、敗けたんじゃないか。


「お、お言葉ですが……」

「聞こえんッ! 腹から声を出せ!」

「お言葉ですが! 陛下のお言葉をもって此度の戦争は終わりました。……死ぬ思いでお国に尽くして、そのまま放り出されて。ぼ、僕はもう二等兵でもなければ、あなたも……」

「馬鹿者!」


 吹き飛ぶかと思うくらいの大声に、思わず身をすくませた。


「新村二等、貴様はここが新帝国劇場だと言ったな! 見よ、この一面の焼け野原を! かの大劇場は畏くも陛下の御心によって臣民に下賜されたものである! それを復興せしめ、在りし日の姿を取り戻すまで我らの戦は終わるものではない!」


 この人は破壊される前の劇場を知っているのだろう。瓦礫の山を示した指は小さく震え、見間違いでなければその眼からは今にも涙がこぼれんばかりだ。


「……新村二等、これより軍令を下す。謹んで拝命せよ」

「は、はいっ」


 そして大将校は、僕に向き直って厳かに告げた。

 その有無を言わせぬ視線と声に貫かれたように、僕は先ほどの自分の言葉も忘れて思わず返事を返してしまう。……軍令? いまさら何を言っているんだ。


「……発声の修練を続けよ。先達からは表情と手ぶりを学べ。役の修練は独りで行うことなく、必ず他人の眼から評してもらえ。……新村二等復唱せよ」

「……え?」


「復唱だ! 新村二等!」


「ハッ、ハイ! 発声の修練を続け、先達の表情と手ぶりを学びます! 役の修練は独りで行わず、必ず他人の眼で評してもらいます! 以上復唱終わり!」


「よろしい。……ならば励めよ若人、喝采が貴様を待っている!」


 そして大将校はまるで役者の様に腕を広げると、僕に、客席に向かって一礼した。


 その時、僕は確かに聞いたんだ。二千人の喝采を。


 スポット・ライトはないけれど。

 雲の切れ間から光が差しこんで、その人の勲章をきらきらと輝かせていた。

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瓦礫の舞台 松岡清志郎 @kouhai

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