第7話 絶望
目を覚ました佑月がいたのは、見慣れぬベッドの上だった。
そこはクリーム色のカーテンに囲まれた空間で、保健室かな、と佑月は当初考えた。
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見回す。
――動かした身体があちこち痛かった。尻のあたりはとても痛い。
保健室ではなさそうだということにはすぐに気付いた。
ベッド横に、病院にあるようなテレビと棚がセットになった設備がある。いつの間にか制服でない……病院服のようなものを佑月は着せられていた。
(え、まさか本当に病院なの?)
記憶が欠けていた。保健室に向かっていたことはおぼえていた。
具合が悪くて、廊下を歩いていたら、歩けなくなって……誰かに助けてもらった気がする。
誰に? 多分、そいつと一緒に保健室に向かったのだろうが……それにしては、どうも状況がおかしい気がする。
(なんで?)
佑月が考え込んでいると、部屋に誰かが入ってきた気配があって、カーテンの端から女性が顔を覗かせた。看護師のようだった。
女性看護師は佑月の様子を確認するとにこりと微笑んで、少し待っててね、と言って一度部屋を出ていった。
ほどなくして彼女は初老の女性医師を伴い、再び佑月の病室にやってきた。
「どこか、痛いところはありますか?」
「えっと……お尻のあたりと、背中が痛いです。あと少しだけ、首も……?」
説明しながら、佑月はうなじに指で触れた。手当をされているのか、ガーゼのような感触があった。
何かを思い出しそうなのに、思い出せない。そばに誰かがいた気がするのに、今そばにいるのは医師と看護師だけだ。
「どうしてここにいるのかは、おぼえている?」
関医師の表情は変わらないものの、かすかに眼差しが鋭くなる。佑月は首を横に振った。
「それが、よくおぼえていないんです。具合が悪くて、保健室に行こうと思って…………僕、なにか悪い病気だったんですか?」
関医師と看護師が顔を見合わせた。
「……どうしましょうか。いろいろと、水元くんに話さなくてはならないことがあるんだけど、まだお母さんもいらっしゃらないし」
困ったように頬に手をあて、関医師がつぶやく。――少しだけ嫌な予感がした。
結局、関医師が口にしていた「話さなくてはならないこと」を聞くのは保留になった。保護者である妙子の到着を待つことになったのだ。
妙子が病院にやってきたのはそれから数時間後、夕方になってからだった。
しかし話し合いの場は持たれなかった。
佑月のもとに来る前に、妙子は何らかの話を聞かされてきたようだった。
カツカツとヒール音を響かせて佑月のいる病室にやってきた妙子は、ひどく険しい表情をしていた。佑月の顔を見るなり、妙子は大きく右手を振り上げた。
――――パシンッ。
頬に衝撃が走り、乾いた音が響いた。ベッドの上に倒れた佑月に、妙子は感情を爆発させる。
「この大馬鹿者がっ! 迷惑ばかりかけてないで、さっさと退院しなさいッ」
それだけ言うと、廊下から追いかけてきたらしい看護師を押しのけて、妙子は病室を出ていった。
血相を変えた看護師が佑月に駆け寄ってくる。
佑月は何が何だかわからなかった。
氷袋をもらって頬の腫れを冷やしていると、病室にやってきた関医師から数日間の入院を言い渡された。
汗をかいているのに入浴は許可が下りず、シャワーも浴びることができなかった。18時になると食事が提供された。初めての病院食は品数も多く、間違いなく美味しかった。なのにどういうわけか喉を通らなくて、佑月は夕食を半分ほど残してしまった。
佑月のいる病室は個室だった。自分がじっと息をひそめていれば、部屋の中からは物音ひとつしない。廊下にいる誰かの声や、病院スタッフが動き回る音が響いてくる。
その日は早めに眠りについた。
翌朝、朝食を終えてしばらくすると、関医師がやって来た。予想はしていたが、妙子は病室に姿を現さなかった。
病室にやってきた関医師は窓のブラインドを下ろしてから、佑月の近くに丸い椅子を持ってきて「よいしょ」と座った。
「まず、そうね。……バース検査の結果がわかって、水元くんはオメガ性でした」
「え? ……そう、なんだ」
少しだけ予想はしていた。だけど、どうして今そのことが話題に上がるのか?
嫌な予感が
昨夜、ベッドの中で思い出したいくつかの記憶の断片。この腕はたしかに温もりを抱きしめたのだ。
廊下で動けなくなっていた佑月を助けようとしてくれた相手は、隣のクラスの男子だった。アルファではないかと噂のある奴で…………待って、アルファ?
「この年齢でとても珍しいことではあるんだけど、水元くんの身体は昨日、突然発情したんだと考えられます。具合が悪かったって言っていたよね? 熱っぽくて、フラフラしてた?」
関医師に問われ、佑月は記憶を辿りながら肯定した。
「はい、朝から頭が痛くて、授業中に悪化してきて。息が苦しくなって歩けなくて……」
「うん、それらはオメガ性の発情症状と一致しています。やはり水元くんは昨日、突然ヒート状態になってしまったということで間違いないでしょう」
「……はい」
関医師はそこで一度言葉を区切った。その時点で佑月は、これからされる話の内容を薄々予感していた。
佑月のほうを見つめる白衣の医師は、目元にかすかに同情の色をにじませた。
「それで、……それでね。苦しんでいた水元くんを助けてくれようとした子は、アルファ性だったと判明したそうです。まだ二人とも中学一年生で、お互いの発情を誘発しあってしまうなんて、なかなか珍しいことではあるんだけどね。……発情したアルファとオメガがどういう状態になってしまうか、聞いたことはあるかな?」
独りきりになった病室で、佑月はぼんやりとしていた。
記憶がほとんど残っていないことはかえって良かったのかもしれないね、と関医師は言っていた。
たしかに記憶はないけれど、起きてしまった過去までは消えてくれない。
まだ、佑月は半信半疑だった。自分がヒート事故を起こしたなんて。しかもアルファに首を噛まれてしまったなんて。
「嘘。……嘘だ。うそでしょ……?」
自分の身体を抱きしめる。言葉にして否定しようとするほど、現実が襲ってくる。
昨日のことは、ほとんどおぼえていない。だけど身体には痛みも傷も残っていて。関医師や看護師が佑月を騙そうとしているのではないことがわかってしまう。
うなじを覆っているガーゼを強引に剥がした。
ガーゼの下に隠されていた部分に触れると、そこには確かに傷があった。デコボコとした皮膚の感触がある。――これが噛み痕なのか。
窓の向こうは夏の日差しが輝いていた。
照り返しでまぶしいほどの景色が今日はどうしてか遠かった。世界はきらびやかに残酷に、佑月のことを拒絶している。
普通の、当たり前にあるはずの平凡な幸せの世界から、自分はこぼれ落ちたのだ。
「どうして……っ」
白い掛け布団にぽたぽたと雫が落ちていく。染みが増えていく。
この病室だけが、佑月だけが、輝かしいあの夏の世界から切り離されてしまった。
実感が湧いてくると、涙があとからあとから溢れてきて止まらなかった。
「嫌だよ、そんなの……っ。嫌だ嫌だいやだ……っ!」
病院の枕を腕に抱え、佑月は口を押し付けて叫んだ。涙が止まらない。受け入れられない、受け入れたくない――――!
ベッドの上に蹲ったまま、佑月は泣き続けた。
――ああすれば良かった、こうすれば良かった、と。
いくら思ったって、願ったって、起きてしまった現実は変えられない。
後悔で過去を変えられるなら、後悔なんていくらでも差し出せるから、誰でもいいからこの現実を変えて欲しい。
自分の不注意で、運の悪さで、未来がこの手からこぼれていった。
馬鹿だった。運が悪すぎた。…………それが運命だったと納得するには自分はまだ子どもで、現実を真摯に受け止めることなんてとてもできなかった。
【第一章・END】
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