第4話 母親


 その日、妙子の帰宅はいつもより早かった。

 帰宅後に洗濯機をまわし、百円ショップで購入したほうきで佑月が玄関前を掃いていると、カツカツとヒールを響かせてスーツ姿の妙子が帰ってきた。妙子は近くにある不動産屋で働いている。


「おかえりなさいっ」


 佑月が声をかけると、疲れ切った顔をした妙子は顔を上げ、「あら、掃除してくれたのね」とかすかに目元を緩めた。

 空がまだ明るいうちに妙子が帰ってくることなんて珍しい。

 妙子が右手にぶら下げているビニール袋に気付いて、飼い主の帰宅を喜ぶ子犬のように佑月は母親に駆け寄った。


「こんなに早いなんて珍しいね。……それ、夕ご飯?」

「ああ、そう。作る元気なんてないもの。食べるでしょ?」

「うんっ、やったありがとっ」


 中学生にもなると母親をうっとおしがる友人たちもいるが、佑月はそうではなかった。

 佑月は妙子のために玄関扉を開けてあげて、妙子が着替えに向かっている間に、できぱきと夕飯の準備を整えた。


 妙子が持ち帰ってきたスーパーの値引き弁当をレンジで温めながら、食器棚からグラスを二つ取り出して水道の蛇口から水を注ぐ。

 扇風機の風が妙子の席に当たるように調節して、うきうきと弾む気持ちで、母親と顔をあわせていただきますをした。一緒に夕食なんて、いつぶりだろう。

 色とりどりのおかずが詰め込まれた弁当を食べながら、おずおずと佑月は切り出した。


「あのね母さん、話があるんだけど」

「なによ、改まって」

「うん。……あのさ、今週ね、下校途中にモデル事務所の人に声をかけられたんだ。モデルとか興味ないかって言われて。中学生でもチャレンジできるならやってみたいなって思ってるんだけど……」

「モデル事務所? あんた馬鹿だから騙されてるんじゃないの? 事務所の名前は?」


 眉をひそめた妙子が声を一段低くする。


「名刺に書いてあったよ! 今もってくるっ」

「待ちなさい。食べてからでいいわよ。行儀の悪い」


 椅子から立ち上がったところを妙子にぴしゃりと制されて、佑月はしゅんとうなだれた。


「ごめんなさい……」


 静かに椅子に座りなおし、箸を持ち直す。

 ぽつぽつと会話をしながら互いに食事を終えて、それから佑月は改めて妙子に名刺を差し出した。

 白い紙きれを受け取った妙子は訝しげな顔をしながらも、スマートフォンを取り出し、何かを調べ始めた。


「……あら、実在するのね。電話番号も同じだわ。……佑月、あんたモデルになりたいの?」


 妙子の眉間にあったしわが少し薄くなる。


「チャレンジしてみたいって気持ちはあるんだ。せっかく声をかけてもらったし」

「あんた顔だけは整ってるものね。頭の中身のほうは期待できないようだし、生きてくための手段を早いうちから模索するためと思えばアリか。オメガのタレントも所属してる事務所みたいだから、万が一あんたがオメガだとしても希望はあるわね。あとはレッスン料とかそのあたりの話次第かしら」

「レッスン料?」

「ウォーキングとかポージングとか、いきなりできるもんでもないでしょう? みんな練習したり教わったりしてんのよ。でも言っておくけど、レッスン料含め所属するのにお金がかかる場合は無理よ。そもそも私は大金は出せないし、まだその事務所を完全に信用したわけでもないからね」

「う、うんっ。じゃあ、信用できる事務所だってわかったら、モデルやってみてもいいの……?」


 佑月を一瞥し、妙子は椅子から立ち上がった。タバコの箱とライターを手にして、ベランダへと歩いていく。


「あちらの話次第だけれどね。バース判定の結果が出たら連絡しろって言われたんでしょ? いいわよ、結果が出たらとりあえず連絡してあげる」

「本当に!?」

「いいって言ってるじゃない。早く独り立ちして、私を楽にして頂戴ね」


 妙子は外に干してあった洗濯物を雑に取り込み、ガラス戸を閉めてからベランダに座り込んだ。

 窓ガラスの向こう側で紫煙をくゆらせる妙子の姿を眺めながら、佑月はじわじわと湧き上がってくる歓喜を噛みしめた。


 (チャレンジしてみてもいいって、言ってもらえた……!)


 飛び跳ねたいくらいの気分だった。

 佑月はキッチンにある流しに駆け寄ると、鼻歌交じりにスポンジを泡立てていく。うきうきとした心地でグラスを洗い、箸を洗った。

 スポンジの上でモコモコとふくらんでいく白い泡のように、佑月の未来もモコモコと希望と期待で膨らんでいくようだった。

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