第2話 誰もいない部屋
家に帰ってすぐ、シャワーを浴びた。
冷たい水で身体中の汗を流していく。外の熱気を溜め込んでいた身体が冷却されていく。
安いシャンプーと石鹸で身体中を洗い終え、使い古したバスタオルで身体を拭うと、佑月は下着だけを身に着けてリビングに向かった。経年劣化した市営住宅の一室は電気を点けなければ昼間でも薄暗い。
簡易キッチンでコップに水を注いで三杯分飲み干してから、扇風機の前に座り込む。生温い風だけれど、冷えた身体にはこれくらいが丁度良かった。ごろんと床に寝転んで、染みの目立つ天井を眺める。
この部屋には歴代の住人が残した汚れがそこらじゅうに刻まれている。たばこのヤニ汚れで壁紙は黄色いし、床には何かを落としたような跡があちこち残っていて、畳は色褪せて擦り切れやささくれが目立っている。
(あ、洗濯しなくちゃ)
思い出すやいなや、佑月はすばやく身体を起こした。
脱衣所に戻ると脱ぎ捨てていた服を適当に洗濯機に詰め込んだ。玄関に放り出していた体操着を拾ってきて、それも詰め込む。この暑さなら洗濯物は干せばすぐに乾くだろう。
ついでに手拭き用のタオルも洗っておこう、と洗面台の横にかかっていたフェイスタオルを手にとって、ふと鏡の中の自分と目があった。
(モデル……かぁ)
小学生の頃から、佑月は容姿を褒められることが多かった。
いくら日光を浴びても白いままの肌。安物のリンスインシャンプーでもさらさらの黒髪。黒目がちの大きな瞳に、すっと整った鼻梁。
自分では見飽きてしまっているこの顔を、周囲は日本人形のようだとかなんとか言ってよく褒めてくれる。褒められて悪い気はしないし、この顔は武器になることを佑月はとっくに自覚している。
――だけど母親の妙子だけは佑月の整った顔をあまり褒めてはくれなかった。
佑月の顔は父親に似ているのだ。妙子を捨てた男に似ている我が子を、妙子はどこかで疎ましがっているような気配がある。
幼心にそれを感じ取ってしまって以来、佑月はできるだけ妙子の負担にならないようにと気を遣っていた。
身の回りのことは自分でこなし、掃除や洗濯は率先して担うようになった。服やゲーム機のおねだりなんて当然しない。学校の集金の通知は毎回頭を下げて妙子に頼んでいる。
……それが佑月の「普通」だったから、友人の戸谷みたいに、当たり前に親の愛情に満たされている同級生と接していると、羨ましいなと思うことは当然ある。
(お腹すいちゃった……何かあるかな)
戸棚の中を探すと、レトルトカレーが出てきた。冷凍庫を開けるとラップにくるまれた冷凍ごはんが一つだけ残っていた。
(これでいっか)
電子レンジに冷凍ごはんを放り込む。
妙子はきっと今夜も遅いのだろう。きっと夕飯も食べてくるはずだ。
カレーを食べ終えたら洗濯物を干して、掃除をしておこう。皿洗いも忘れてはいけない。あとは……あとは、妙子の布団を敷いておいたら、帰ってきた妙子はまた喜んでくれるだろうか。
電子レンジが稼働する音がヴーンと響いている。レンジドアのガラス部分に佑月の顔が映っていた。
母親である妙子のおかげで自分は生活できている。シングルマザーとして妙子が働いて養ってくれているから、今の自分があるのだ。
妙子に見捨てられたらどうなってしまうのか――佑月はそれを想像するだけで怖かった。
(この顔でお金を稼ぐことを……母さんは許してくれるかな?)
妙子に見捨てられたくない。だから早く稼げるようになりたかった。
でも、妙子がもしも反対するなら、モデルは諦めて別の方法を探そうと考えていた。
……佑月が働きに出ることで早く妙子を楽にさせてやりたいけれど、妙子に見放されるのはもっと嫌だ。
できることなら、――もうほんの少しだけでいい、妙子には優しい余裕ある笑みを浮かべていて欲しいと佑月は願っていた。
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