ユア・マイ・シャイン

春峯蒼

ユア・マイ・シャイン

 教室のドアを開けると、クラスメイトの視線が一斉に私の方へと向けられた。

 体が竦み、息が詰まる。鞄の紐をぎゅっと握りしめ、薄汚れた床に意識を集中させる。

 一つの事に意識を向ければ、周囲の音を遠ざける事が出来る。二年半の学生生活で身に着けた術だ。

 刺すような視線をなるべく視界に入れないようにしながら、窓際の自分の席へ急ぐ。クラスメイトの声も、ただのざわめきにしか聞こえない。これでいい。このままがいい。

 席についた瞬間、チャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。クラスメイト達が、前を向くのがわかる。

 視線の重圧から解放され、安堵の息を吐く。

 なるべく誰にも話しかけられないよう、チャイムが鳴るギリギリに教室に入るようにしている。高校に入学してから、ずっと。


 ――こんな事、いつまで続ければいいんだろう。


 教科書やノートを引き出しに移し、机の上で頬杖をついて、窓の外を見やる。

 雲一つない空に浮かぶ太陽は、憎たらしいほど眩しかった。










 ――いつからだろう。


 学校へ通う事が、苦痛になり始めたのは。


 少なくとも、中学まではそんな事思いもしなかった。地元には小学校も中学校も一つしかなかったから、転校生でもない限り、顔ぶれは一切変わらなかった。


 でも、高校は違う。


 入試に失敗して、地元に近いがランクの低い高校に入ってから、私の毎日はモノクロで彩られるようになった。

 中学の時の同級生もいるにはいたが、全員クラスが分かれてしまい、顔をあわせる事はほとんどなくなった。

 それでも、最初の頃はまだよかった。人付き合いが苦手で、自分から人に話しかける事が出来ない私に、クラスメイト達は優しくしてくれた。

 学年ごとの行事の時も私を推薦してくれたり、事あるごとに私の話題を出してくれた。


 ちやほやされている、と思っていた。


 皆、私の事をちゃんと見ていてくれてる、と。


 ――でも。


 実はそうではなかったと気づいたのは、母校の中学校に遊びに行った時だった。


 天文部の後輩の様子を観に行った時、私の顔を見るなり、後輩は心配そうな顔で言ったのだ。


 ――明野あけの先輩、大丈夫ですか?


 訳も分からず首を傾げる私に、後輩は言った。


 ――高校で、いじめられてるんですよね?


 意味が、わからなかった。


 どうしてそんな話になっているのか、理解できなかった。


 そんな事ないよ、と言いかけて、気づいた。


 後輩の姉は、私と同じ高校に通っている。クラスも違うし、別に仲良くもないけど、お互いの存在は認知している。

 だから、後輩の話は、姉から直接聞いたとしか考えられないのだ。


 気づいた瞬間、目の前の景色が色あせていくのがわかった。


 私は、どうしようもなく馬鹿だった。


 クラスメイト達が私の話をしていたのも、揶揄っていただけ。

 

 事あるごとに、私を推薦していたのも、面倒な仕事を私に押し付けていただけ。


 私は、クラスメイト達のおもちゃにされていただけだったのだ。


 自分の立場を理解してから、私の学校生活は地獄へと変わった。

 クラスメイトの視線が怖い。話しかけられるのが怖い。勉強にはなんとかついていけているけれど、教室に居続ける事が苦痛で仕方なくなった。

 一年の時は、なんとか最後までクラスの道化に徹していたが、学年が上がってからは、なるべくクラスメイトと関わらないようにした。

 必要最低限しか喋らず、休み時間になると教室を出る。それを繰り返し続け、ようやく三年生になる事が出来た。

 この苦痛に満ちた生活も、もうすぐ終わる。


 ――そんな事を、考えていたからだろう。


「……すみません、気分が悪いので、保健室に行ってきます……」


 授業中、突然立ち上がった私を見て、数学教師はまたかという顔をした。


「一人で行けそうか?」


「はい……すみません……」


 教師の返事を待たず、逃げるように教室を出る。クラスメイト達が私を見ていたのか、何か言っていたのかもわからない。そういう事は、なるべく考えないようにしている。

 人気のない廊下を歩き、階段に差し掛かったところで、足を止めた。

 廊下に誰かいても見つからないよう、階段の陰に隠れて、何度も深呼吸をする。

 ようやく見えたゴールに気が抜けたせいか、三年になってからというもの、私は事あるごとに体調を崩すようになった。それも、教室で授業をしている時ばかり。

 ただ授業を聞いているだけで、気分が悪くなり、机の上に嘔吐しそうになる。最近は、二週間に一度のペースで授業を抜け出している。


 ――だめだな、ほんと。


 あと半年も残っているのに、このままでは最後まで保つか怪しい。

 何よりまずいのは、教室を出たら、体調不良が治ってしまうところだ。

 今だって、数回深呼吸をしただけで、気分が落ち着いている。


「ほんと……くず」


 このまま保健室に行っても、仮病を疑われてしまうだけだ。かと言って、教室に戻りたくはない。

 こうなったら、向かう場所はたった一つだ。

 大きな溜息を吐き、私は静かに階段を降りた。









 教室棟の隣にある部室棟。その一階の奥に、天文同好会の部室がある。

 正確には、部室ではなく、他の同好会と合同で使用している備品置き場なのだけれど、私にとっては部室も同然だ。

 キャンプ同好会の人は週末にしか来ないし、軽音同好会はいつも近くの市民ホールで楽器の練習をしている。どちらの同好会も、ここを単なる荷物置き場とてしか使っていない。放課後はおろか、昼休みにさえ誰も来ない。

 だから私は、学校のある日は毎日部室に入り浸っていた。特に、授業中は突然誰か来る心配もないから、安心して部室に居座る事が出来るのだ。


「やっほー」


 ――ああ、でも、まったく誰も来ないわけじゃなかった。


 ドアを開けて入ってきたのは、長い黒髪が似合う美少女だった。


ひかりちゃん」


 星野光ほしのひかり


 私と同じ三年生で、同じ天文同好会に所属している。


 クラスは違うけど、私が唯一自分から話しかけられる人。


 たった一人の、友達。


「部室の電気ついてたから、絶対あかりだと思った。サボるならここしかないもんね」


 壁際に置いてある折り畳み椅子を私の隣に置き、足を組みながら座る。スカートの裾から太ももが見えるのもおかまいなしだ。


「光ちゃんだって……」


「うん、サボり。だってダルいじゃん、授業とか」


 そんな事を言っているが、光ちゃんは学年上位に入るくらい勉強が出来る。

 私が部室にいると、高確率で光ちゃんもやってくるから、同じくらい授業をサボっているのに、成績の差は歴然だ。

 勉強だけじゃなく、スポーツも万能で、美人で明るくて、誰からも好かれる存在。


 それが光ちゃんだ。


 でも、不思議と引け目を感じた事はなかった。

 光ちゃんくらいなんでも出来る存在と自分を比べようなんて、そんなおこがましい事、思うはずがない。

 私が、椅子に座ってボーっと外を眺めている間、光ちゃんは黙々とスマホをいじっている。

 光ちゃんは、いつだって何も訊かず、私の傍にいてくれる。

 それが、とても心地良い。

 ふと、光ちゃんが立ち上がった。何かを探すように、きょろきょろと辺りを見回している。


「ね、星座図鑑ってこの辺になかったっけ?」


「図鑑なら、そこの棚に入れといたはずだけど……」


 部室に本が入れられる棚は一つしかない。でも、棚の中に入れたはずの図鑑はなく、代わりに譜面らしきものがいくつも並んでいた。


「おっかしいなー……って、あ!」


 顔を上げた光ちゃんが、大きな声を出す。つられて顔を上げると、棚の上に図鑑が載っているのが見えた。


「なんであんなとこにあんの!?」


「多分……軽音同好会が、どかしたんだと思う……」


 部室にある長テーブルの上には、楽器ケースやキャンプ道具が所狭しと置かれていて、図鑑を置く場所はない。床にも置けなくはないけれど、流石にそれは悪いと思ったのだろう。棚の上なら、手を伸ばせばギリギリ届かない事もない。


「ったく……」


 棚に近づき、光ちゃんがつま先立ちで手を伸ばす。白く細い指が、図鑑の端を引っ掻く。

 手伝うよ、と言おうとした時、光ちゃんの長袖の裾から手首が見えた。


「っ!」


 声が出そうになって、反射的に口元に手を当てる。


「取れた! ……灯?」


 図鑑を掴んで振り向いた光ちゃんが、怪訝そうに首を傾げる。


「どう……ああ」


 図鑑を楽器ケースの上に置き、光ちゃんが低い声を出す。光ちゃんの視線は、左手首に注がれている。


「ああ、見ちゃった?」


 無数の切り傷がついた手首を隠しながら、光ちゃんはばつの悪そうな顔で笑った。


「うん……ごめん」


「なーんで灯が謝るの。リストバンド忘れた私のせいじゃん」


 光ちゃんはいつも左手首にリストバンドをしている。てっきり、お洒落でしているのだとばかり思っていたけれど――。


「ごめん、汚いもの見せたね」


 苦しそうに笑う光ちゃんに、首を振る。


「ううん、そんな事ない。汚くなんかない」


 そんな言葉で片づけていいものじゃない。


「……ありがと」


 掠れた声で呟き、光ちゃんは図鑑を広げた。私の隣に座り直し、ページを捲りながら言う。


「うちさあ、お父さんが星好きでさ、休みの日の夜とかよく一緒に天体観測に行ってたんだ。お父さんの運転で、山のテッペンとか、誰もいない砂浜とかに行って、一緒に星を眺めてさ……楽しかったなあ」


 光ちゃんが遠い目をする。


「お父さんの影響で、私も星が好きになったんだ。ま、お父さんが死んでからは、あんまり遠出できなくなっちゃったんだけどね」


 衝撃的な事実に、言葉が出てこない。お互いの事をあまり詮索しないようにしていたから、私は光ちゃんの家庭事情も何も知らなかった。


「ごめん、辛気臭い話しちゃって。でも気にしないで。お父さんが死んだのはもう十年も前だし、もう特に気にしてないから!」


 光ちゃんは笑っているけれど、私は全然笑えない。


「それからすぐお母さんが再婚して、家に新しいお父さんが来たんだけどさー、これがまた酷い親父でさ。気に入らない事があるとすぐ殴るし、暴言吐くし、もう人として最低! でも外面だけはいいって言う質の悪いタイプ。ほんと……大嫌い」


「光ちゃん……」


「……あいつが来てから、毎日が地獄でさ。最近とか特に、大学に行けとかうるさくて、それで反抗して怒られての繰り返しで……つい手首を切って憂さ晴らししてたってわけ。あわよくばこのまま死ねないかなーとか思ってたし」


「わ、私、光ちゃんが死んじゃったら……いやだよ……」


 口に出したら、涙がこみ上げてきた。


「光ちゃんが死ぬなら……私も死にたい」


 光ちゃんが、驚いたように目を見開く。そこからは、自然と口から言葉が零れた。


「私も、高校に入ってから、毎日辛くて……く、クラスメイトの視線が、怖いの。私が何かする度に笑われたらどうしよう、私の存在が皆の迷惑になってたらどうしようって……。そんな事ばかり考えてたら、教室にいるだけで気分が悪くなって、それで……」


 ――ここに逃げてきた。


 逃げてるばかりじゃダメだと、わかっているけど、どうしようもない。


「じゃあ、一緒に死のうか?」


 軽い口調で、光ちゃんが言った。


 ――うん、死のう。


 そう言いたいのに、言葉が出ない。


 なんで、どうして。


「……なんてね。半分冗談だよ」


 ややあって、光ちゃんがふっと口元を緩めた。


「光ちゃん、でも、私……」


「わかってる。でもね、死ぬのはもう少し先でもいいかなと思って。だって、私には灯がいるから」


「え?」


 光ちゃんが、目を細める。


「太陽の光が地球に届くのにかかる時間は約8分で、星の光はもっとかかるのは、灯も知ってるよね?」


 突然、がらりと話が変わった事に驚きつつ、こくりと頷く。


「お父さんがさあ、死ぬ前に言ってたんだ。どんな人間の上にも、光は平等に降り注ぐ。暗い闇の中にいても、光は絶対にあるって。……正直、信じられなかった。お父さんが死んでから、私の世界は闇で覆われていて……私を照らしてくれる光なんて、ないと思ってた。でも、そんな時、灯と出会った」


 そう言った光ちゃんは、とても晴やかな顔をしていた。


「性格も全然違うし、共通の趣味は星くらいだけど、でも私は……灯と一緒にいる時だけは楽しかった。それでわかったんだ。どれだけ時間がかかっても、光は絶対、届くんだって」


 何億光年離れていても、光は届く。


 当たり前の事が、今は別の意味に聞こえる。


「わ、私も……だよ!」


 昂る感情のまま、ありったけの想いを込めて叫ぶ。


「光ちゃんは、私の……光だって、そう、思ってるよ!」


「ふふ、なんだか“光”がゲシュタルト崩壊起こしそうだけど、嬉しい」


 光ちゃんが立ち上がり、大きく伸びをする。


「なんだかんだ、私達結構似てるよね」


「そうだね」


「現実はくそったれな事ばかりだけど、灯がいるから、まあいいかって思う」


「でも……授業サボるのは、悪いなって思ってる」


「確かに良くはないだろうけど、たまにはいいんじゃない? どうせあと半年もすれば卒業だしさ」


 そんな感じでいいのだろうか。

 吹っ切れた光ちゃんは前より少し楽観的になったような気がする。


「ねえ、卒業したら、一緒に星を見に行かない? ちょっと遠出してさ」


「遠出って、どこに行くの?」


「私、昔から南十字星見たいなって思ってたんだ」


「南十字星……日本じゃ、沖縄の南の方でしか見れなかったよね?」


「うん。だから、沖縄! 行こ? 二人で!」


 修学旅行でしか旅行をした事ない私には、信じられないくらいの遠出だ。


 ――でも。


「うん、行きたい」


 光ちゃんと二人ならと思ってしまう辺り、やっぱり私達は似た者同士なのだろう。

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ユア・マイ・シャイン 春峯蒼 @harumineaoi

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