3 労働環境は悪そうです

 王国から辺境伯領を越えて、漸く公爵領へと踏み入った。地図に記されてあるお屋敷は森の中にあるようで、余計に道が荒い。

 着いた頃には既に日も暮れていた。


(てっきり娼館を紹介されたのかと思っていたけれど、大きいお屋敷だわ。侍女のお仕事でもあればいいのだけれど……)


 思いがけなく職場環境が良さそうだ。


 紹介状を持っているというだけで勝手に入って良いわけがなく、かと言って門番もいない。

 うろうろと門の前を右往左往していると、黒髪ボブの少女がやってきた。


 王国ではあまり見ない、光沢のある黒い髪に黒い瞳だ。長いマントのような、黒地に金の文様の施されたローブを羽織っている。フェリシアよりも随分若く、16歳ほどに見える。


(素敵なローブを着ていらっしゃる……。はっ! 私こんなにみすぼらしい格好をして、……)


 着の身着のまま、一番質素なドレスで来てしまった。しかもドレスの裾に泥がはねている。


 少女は不審なフェリシアを見て暫く首を傾げていたが、そのくりくりとした大きな丸い瞳が、歓喜に満ちた笑みへと変わった。

 パチリ、と指を鳴らしている。


「分かった! 貴方は新しいお嫁さん!」

「え?」

(お嫁さん?)

「すっごく良いタイミングに来てくださいました! ありがとうございます!」

「え? え?」

「ご主人様今国境の警備で不在なのですが、今晩か明日あたりに帰ってきますよ」

(今不在なの? 入っていいのかしら。ご主人様って、雇用主? この方侍女のようには見えないけど……)


 今の一瞬の会話だけでも聞きたいことがボロボロ出てきたというのに、少女はフェリシアの腕を掴んでズンズンと屋敷へ歩いていく。

 しかし、その数ある疑問の中で、最も問いただしたいもの、印象的な言葉があった。


(……お嫁さん?)

「あの、ここはどなたの邸宅なのかしら」


 聞かずとも、大体読めてしまう。

 フェリシアの手を引きながら、少女は元気よく教えてくれた。


「シュローレン公爵家の、馬鹿みたいに大きな屋敷!」

「……!」

(やっぱり……!)


 どうやら叔父に、いっぱい食わされたようだ。


✽ ✽ ✽


 変な模様の絨毯の上に直に座り、黒髪の少女レイ・ヒイラギとフェリシアは、誰もいないのに小声でコソコソとお話していた。


(歓迎されてないから床に座らされているのかと思ったけれど、レイ様の中では床に直に座ることは、当たり前のことのようね)


 不服そうに顔をしかめるレイを前に、フェリシアは深々と頭を下げていた。


「え〜勘違いだったって? でも貴方、辺境伯様からの贈り物ですよね。この前通達が届きましたよ」

「通達って、私が公爵閣下のもとに嫁ぐという旨の?」

「はい。ご主人様以外は既に知ってます」

「……ここの情報網は、どういう仕組なのかしら……」

(報告に際して、主人だけがのけ者にされるなんていうことがあるのかしら。あり得ないわ)


 しかも、これは婚姻なのである。当事者だけが知らないままに、婚姻を成立させても良いものだろうか。


(お互いに見知らぬままの結婚……)

「では、死亡同意書にサインしてくださいませ」

「し、死亡同意書?」

(婚姻証書ではなくて?)

 

 てっきり対面しないまま結婚させられものと思っていたのだが、そこは慮ってくれるようだ。


 渡された紙は、死亡同意書で間違いないようであった。リーシュナ・シュローレンに殺された場合、遺体をこちらで処理する旨が長々と書かれている。


(今まで見たことのある契約書の中で一番、自分に不利益な内容にまみれているわ。公爵閣下の噂は何一つ耳にしたことがないのだけれど、人となりを知る前に殺されてしまいそう……)


 万が一にも殺される可能性のある妻とは、例えばどういう場合があるのだろうか。

 契約書を前に固まるフェリシアを見て、レイがニコニコと微笑んでいる。


「大丈夫ですよ。死体は燃やしてあげますから」

「ど、土葬ではなくて? って、そうではなくて……」


 死後の遺体処理の心配など微塵もしていなかったのに、急に死が鮮明になってきた。自分がここで何をさせられ、何を求められているのかが全く分からない。


 フェリシアが何に困っているのか伝わっていそうなものだが、レイは核心に触れない説明しかしてくれなかった。


「前の妻のオリエッタ様は、ご主人様の3人目の妻です」

「……次で三回目の破婚ってこと?」

「はい。皆様強引に結婚するくせして、ご主人様不在中に怖いってんで逃げちゃうんです。オリエッタ様も類に漏れずそうなのですが、でもそれ知ったらご主人様キレそうで言えずにズルズル……」

(怖い? 顔がかしら)

「い、言ってないの?」

「怒られるに決まってますし、そもそも帰ってこないですし……」


 どうやら円満離婚ではないようだ。

 夫の不在中に、オリエッタが一方的に離縁書を叩きつけ、そのまま出ていったのだろう。


 レイは、自分の不始末を責められている事態に、自分は悪くないとでも言うように頬を膨らませてそっぽを向いている。


「でもそうなると、まだ離縁は成立していないのよね? 不貞はできないわ」

「そんなのは些末なことです。既成事実を作ってもらって、そこからゴリ押ししましょう」

「ええ? それ、誰が幸せになるのかしら……」

「ご主人様です」

(どうして……)


 知らない女に言い寄られるのは、恐怖でしかないだろう。

 それに、気になるところはそれだけではない。


(黙って嫁ぐにしても、未来の旦那様である公爵閣下の想いを尊重したいわ)

「でも、オリエッタ様が逃げたことを話したら怒るかもってことは、公爵様は奥方様のことを愛していらっしゃるのではなくて?」


 夫婦なのだから、愛はあるだろう。

 フェリシアの純粋な質問に、レイが腹を抱えて笑っている。


「あの人は理由がないと動きませんし、その理由に感情を持ってきませんよ!」

「そうなの?」

(合理的な方なのかしら)

「オリエッタ様に逃げられて困ってるんです。ということで貴方、オリエッタ様の代わりになってください!」


 逃さないぞというふうに、レイがフェリシアの腕を掴んで身を寄せてきた。フェリシアの手に無理矢理ペンを握らせ、死亡同意書に近づけている。

 フェリシアも、上方に力を込めて抵抗する。


「ひい〜待って待って、こういうのって、相互に承諾してからでないと嫌だわ!」

「今時無垢な少女ですか? 大丈夫、会うのは暗い時間帯だけだからきっとバレないです!」

「え? それってどういう意味……」

「どうか、私を助けると思って!」


 そう言って、契約書をズイズイと顔の前に押し付けてくる。主人不在の間に奥様を逃した痛恨のミスを、どうにか補いたいようだ。

 

(叔父様は、公爵様の隠居爺様が後継の件でお怒りになっていると言っていたわ。私に求められていることってつまり──)

「はい、死亡同意書! はい!!」

「ん〜〜」

(そもそも私の一存で決められることでもな──)

「貴方、逃げ場がないのではないですか? 最近暗殺者連続で来てこの離縁騒ぎ、正直ご主人様に怒られそうなんです! お願い助けてください!!」

「む〜〜」

(早い……!)


 もう少し考える時間が欲しいのに、レイは押しが強い。フェリシアは、目を逸らした先にある丸く大きな黒い瞳に、ぐっと息を呑んだ。


 理由はよく分からないが、噂の公爵家は暗殺者含め色んな人に門戸が開かれているらしい。

 しかも、そのせいで余計に気性の荒くなっている主に飼われなければならないらしい。

 しかも、必要と言ってくれるのならここで働いてもいいかもしれない、と思っている自分がいる。


「こ、殺されちゃうのお?」

「刃を向けなければ大丈夫! 死んでも私が覚えててあげるから」

「え〜……ほんとに?」

「どぞ! フェリシア、とお書きになって!」

「え〜……い!」


 半ば流されるようにして、死亡同意書に軽々しくサインをしてしまった。

 フェリシア・ヴィリデ・アッシュベリー、と不利益この上ない契約書に自分の名前が浮き上がっている。


(尚早だった気がする……!)


 項垂れるフェリシアの横で、レイが同意書を掲げてガッツポーズをしていた。

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