第7話 召喚
あれには勝てない。そう思うのと、背中を見せて走り出すのとは同時だった。
幸いこれまでのゴブリンとの死闘で退路は開けていた。僕は一目散に遁走する。背後から、「グィゲェゲグギャァァアア!」と腹に響く低い怒鳴り声が聞こえた。
僕は垂れ下がる蔓を引きちぎるように突き破り、倒木を飛び越えて走る。
数秒の後、同じように先頭のゴブリン達数体が倒木を飛び越えて追って来た。
無理に葉や枝を突き抜けたため、肌が真っ赤に腫れ、ヒリヒリと痛むが、それどころではない。捕まれば人生の終わりだ。僕は残る力を絞り出して、必死に走った。
元いた川に戻って来た。川の幅は数メートルはあるが、僕は足に力を込め、向こう岸まで飛び越えた。そして、そのまま樹々の間を抜けてひた走る。
ゴブリンも同じように飛び越えようとするが、岸まで届かず、川の中央に着水し、そこからは流されないように踏ん張りながらノロノロと岸まで移動していた。
これで少し時間を稼げるはずだ。
僕はとうに限界を超えた掠れた呼吸で溺れる人のように吐息をつきながら、休める場所を求めて、よろよろとまた駆ける。
段差に気付かず、僕は足を踏み外して盛大に転んだ。
「いっつ……」
幸いうつ伏せに倒れたおかげで新里さんに大事はなかったようだ。僕は何気なく後ろの段差に目を向けると、段差の縦面の土が抉れて窪みになっているのを見つけた。飛び込むようにそこに入り込み、段差の上から垂れる蔓を引っ張ってカーテンの様にして隠れた。よく見れば外から中は見えるが、何もしないよりはマシだ。
肩を上下に動かして、呼吸を整えていると、土に背を預けた新里さんが唐突にぽつり、と口を開いた。
「……ごめん」
僕は咳き込みながら、呼吸を落ち着けて、答える。
「僕が迂闊に道を選んだせいだから。新里さんのせいじゃないよ」
「でも、あたしがいなければ、逃げ切れてた」
それまで宙を見つめていた新里さんの目が、初めて僕の顔に向けられた。その瞳はある種の覚悟を決めたような、達観した色が窺えた。
新里さんの薄い唇が小さく動き、聞きたくもないその言葉を、涙と共に落とした。
「ねぇお願い。あたしを殺して」
呼吸も忘れて僕は新里さんをじっと見つめる。再び息を吸った時には鼓動が早鐘のように鳴っていた。
「な、何言ってるのさ、そんなこと——」
「あたしがいなければ、あなただって逃げられる」
「できるわけないだろ! 殺すなんて!」
「お願い。殺して、お願いだから。早く殺してよ! あたし、あんな化け物に犯されたくない!」
新里さんは充血した赤い目からぽろぽろと涙をこぼしながら、次第に取り乱していく。彼女はその涙を手で受けることさえできず、流れるままに雫は頬をつたい、顎から落ちて赤いパーカーに染みを作った。
「新里さんが回復するのを待てば2人で——」
「無理なのよ!」新里さんが僕の言葉を遮って叫んだ。「回復なんて……しない。……しないんだよ」
ついに彼女は、敵に見つかる可能性もはばからず、声を上げて泣き出した。
「どういう……こと」とかろうじて訊ねる。
訊ねながら、僕は一つの可能性に思い至っていた。最も残酷で、解決法のない、その想像が見当違いであることを僕は祈った。
そして、僕の淡い願いは、あっけなく砕かれる。
「私のステータス……筋力が1なの。1なんだよ。走ることも、歩くことも——立ち上がることさえも! できないの! ずっと! 一生! できないんだよ!」
ああ、やはりそうなのか、と目の前が暗くなるような思いだった。
この世界に降りた時からずっと、彼女は動くことができなかったのだ。かろうじて這うことで、絶望の中、蟻の歩みで森の中を進んだのだ。
考えるだけで、ぞっとした。死が確定している中、それでも這って進むことがどれだけ辛かったことか。
きっと新里さんは『極振り』をしたのだろう。1つのステータス項目にポイントの大部分を割り振った。彼女のジョブは魔術師だからおそらく知力か魔力に極振りしたのだ。その結果、彼女は筋力に振るポイントが1になり、ろくに動けない身体で下界に降りることになった。
「で、でもレベルアップさえできれば——」
「涙さえ拭えない身体でどうやって敵を倒すって言うのよ」
召喚師の僕もまだ魔法をろくに使えないのだ。魔術師もそうであってもおかしくない。で、あれば最初の敵は物理攻撃で殺すしかないのだ。筋力1は移動もできないのだから戦う以前の問題だ。筋力を1にした者は漏れなく詰んでいる。2でもかなりきつい。3で、元の僕と同じ筋力だからそれでも相当厳しい戦いになる。
300人いた生徒達の中で筋力を4以上にした者はいったいどれだけいるだろうか。多分、そんなに多くない気がする。
新里さんは虚な目で、口元だけ小さく笑った。
「助けようとしてくれて嬉しかった。化け物に汚されるくらいなら、あたしは……あなたの経験値になりたい」
自分の息遣いが速く浅くなっていく。呼吸の音がうるさい。肺が痛い。心臓も。苦悩に目が萎む。視線はすがる藁を探すように無意識に彷徨った。
だが結局、僕の視線は、生きる希望を失くした彼女の目に吸い寄せられるように向けられた。
彼女も僕を見つめる。虚な眼差しが僕の眉間を突き刺す。
「お願い。あたしを殺して」
僕は静かに目を瞑り、彼女のこの先の地獄を想像した。そうでもしなければ、僕は彼女の願いを叶えることは到底できない。彼女を、救うために、殺す。そう、これは彼女のためなのだ。
僕は目を開き、しかし、視線は伏せたまま、小さく頷いた。それが彼女の救いになるというなら、それを彼女が望むのなら。
僕が——彼女を終わらせてあげなきゃ。
僕は彼女の頬にそっと手を添える。
「大丈夫。怖くないよ」
もう片方の手も新里さんの頬に当て、新里さんを包み込む。そして、少しずつ少しずつ、彼女の生命力を吸っていく。
——生命力を使うんだよ。
エリーの声が頭に反芻する。
新里さんの身体から光の粒子が湧き上がる。天に流れていこうとする粒子が重力に引っ張られるように再び地に沈み、そして僕の中に入って来た。
新里さんは穏やかな顔をしていた。苦痛がないようでよかった、という思いと、これで本当によかったのか、という苦悩がせめぎ合う。
それでも、やがて終わりの時はやって来た。彼女は最後に僕の目をもう一度見た。
「ありがとう。ごめんね」
それだけ言うと、新里 梢、という人間は完全に消失し、彼女の服だけがそこに残った。
彼女はこの世界から消えた。僕が消した。僕が殺した。
背負ったものは、新里さんをおぶっていた時よりもはるかに重い。消えることのない大罪。忘れてはならない咎。
気付いたら僕の顔は一面濡れていて、視界がぼやけていた。開いた口から嗚咽にもならない掠れた空気のような悲しみが漏れ出た。次第にそれは音となっていき、低く呻くような泣き声を人目も憚らずに上げ続けた。
涙が枯れた頃、僕はじっと彼女の残した制服を見つめた。何もやる気が起きないのに、黒い気持ちだけは湧き上がる。どこに向けて良いのか分からない憎悪が、いつ爆発してもおかしくない極限の状態で心の底に燻っていた。
憤怒は唐突に
近くを哨戒していたゴブリンが「ゲギィゲギャグギギャァア!」と叫んで仲間を呼ぶ。
程なくして、ゴブリンの大群がやってきて、円形状に僕を囲んで徐々にその幅を狭めてきた。
「クソ共が……」
不意に悪態が漏れる。僕の中の、別の誰かが発したような不思議な感覚だった。その誰かと感覚を共有しているのか、ゴブリン共をすぐにでも皆殺しにしたい黒い欲求が、僕を呑み込んでいく。
僕は身体に溜まった新里さんの生命力を手のひらに集中させ、拳を握っておでこに当てた。
「キミの意志や怒りは、きっとコイツが受け継いでくれるから。安心してね。新里さん」
僕は手を前方に向けて、心の中で唱える。
——生贄召喚。
僕に留まっていた新里さんの生命力が流れるように抜けていき、流れ出た粒子は徐々に徐々に、人の形を作っていく。
やがて煌めいていた粒子は黒い霧のようなモヤに変わり、視界が覆われた。何も見えない。
だが、そこには確かな生命力——それも元の新里さんの生命力の何倍も濃く、強い力——を感じる。それに、どす黒い殺気も。
濁った霧が少しずつ薄まっていった。
完全にモヤが晴れたときに、そこにいたのは小柄で華奢な少女だった。艶やかな黒髪をツインテールに結った少女は僕に背中を向けてあぐらをかいて全裸でそこに座っていた。あどけなく可愛らしい顔立ちではあるが、人血で染められたような真っ赤な瞳は、冷酷な殺意を宿していた。
「あなたがあたしのご主人様だね」彼女が顔だけで振り向く。僕が何か言う前に、彼女が先に口を開いた。「あなたの望みは分かってるよ」
それから彼女は血色の良い唇を三日月型に歪めて、と楽しそうに笑い、白い歯を見せた。
「皆殺し……でしょ?」
彼女が指を鳴らすと、先頭のゴブリンが突然、黒い炎に包まれた。ゴブリンは喚き騒ぎながら悶え苦しむ。そして次にそのゴブリンから十文字型に黒炎が走った。
ゴブリンは悶え踊りながら、十文字の黒炎を意図せずして振り回し、仲間のゴブリンに次々と延焼させていく。
あっという間に目の前に地獄絵図が広がっていった。
彼女はもう一度僕に振り向いて言った。
「あたしはイフリータの血族の魔人、アミだよ。よろしく」
火だるまになったゴブリン達の断末魔の叫びの中、アミは優しく微笑んだ。
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