第5話 沈黙


 陽の光がまだらに当たり、葉の陰が地面に揺らめく。その上を僕の足がいつもより深く足跡をつけた。

 人1人分、いつもより重さが増した歩みは当然、鈍重で、それでも1歩ずつ1歩ずつと着実に進んだ。

 背中に乗せた魔術師の女子は、一言も言葉を発さない。彼女は出会った時に一言口を開いて以降、一切言葉を発さなくなった。だから僕は勝手に——背負うよ、と一応の断りを入れてはいるが——彼女を背負って運んでいた。


 喉はからからだった。唇は乾燥してひび割れ、脱水症状の予兆なのか少し頭痛がする。

 とりあえず水がないことには、これ以上先には進めない。水を求めて、僕は動物の足跡を辿り、ひたすら歩いた。

 落ちている松ぼっくりを踏んでしまい、パキッと乾いた音が足元から鳴る。それを合図にした訳ではないだろうが、その直後に頭の後ろ辺りで囁くような声が聞こえた。


「何、してん、のよ」

「え……川を探してんだよ」

「……そんなこと、聞いてない。なんで、あたしを、助ける」


 彼女の声は今にも息絶えてしまいそうなほど弱々しかった。教室での威勢の良かった声が嘘のようだ。身体にはほとんどバランスを取る力もないようで、だらり、と僕に身体を預ける。だが、不思議と体温は正常のようだし、彼女から何となく感じ取れる生命力も、自分のそれと比べて、特段変わりないように思えた。


 なんで助けるのか。僕は返答しようと口を開きかけて、すぐにまた閉じた。どんな答えも胡散臭いハリボテになりそうで、言葉にするのが憚られた。実際、理由なんてない。なんとなく見捨てるのは道徳心から外れているような気がした。それだけだった。


「自分を、バカにする人間を……なんで、助けるの」


 彼女は質問を重ねる。僕はやっぱり答えない。正直に答える訳にはいかないし、薄っぺらい言葉を吐くのも失礼な気がした。

 僕は問いに答える代わりに、足を速めた。

 そうして、ようやく行き着いた先で、気まずい空気すら忘れて、喜びの声を上げる。


「川だ」


 たどり着いたのは樹々の間を縫うように蛇行して流れる小川だった。

 彼女を小川の横に仰向けに下ろして、僕は両手で小川の水を掬った。そのまま顔に近づけ、口に含む。脳に染み渡るような清洌せいれつな水が喉を下って胃に落ちる。変な味はしない。美味い。

 もう一度水を掬い、横たわる彼女の口にゆっくりと流し込んだ。コクッ、と彼女の喉が小さく鳴る。何度か繰り返し飲ませると、心無しか少し彼女の瞳に色が戻ったような気がした。

 僕も満足するまで水を飲んでから、横臥する彼女の隣に腰を落ち着けた。彼女は生気は戻っても、やはり話をするつもりはないのか、いつまでも黙りこくっている。


「僕は中間なかま つなぐ。キミは?」


 彼女に目を向ける。彼女は仰向けに宙を見つめたまま、相変わらず沈黙していた。

 やはりダメか、と諦め掛け、視線を彼女から流れる川に移した直後、彼女が口を開いた。


新里にいざと こずえ


 彼女——新里さんは宙を見つめたまま、それだけ口にした。少なくとも完全に拒否されている訳ではなさそうだ。

 だから僕はもう一歩踏み込んでみることにした。

 

「それで……いったい何があったの?」


 歩けなくなる程のダメージを負っているのだ。きっと敵に遭遇したのだろう。それは魔物なのか、あるいは同じあの教室にいた生徒なのか。どちらにせよ、まだこの近辺にいるということは確実だ。どうにかして情報を聞き出したかった。

 けれど、新里さんはまた口を閉ざした。

 心の傷、というやつだろうか。とにかく今はこれ以上、深追いしない方が良さそうだ。

 僕は、川の水で顔を洗い、気持ちを切り替えて、新里さんに笑い掛ける。


「僕なんかに背負われて屈辱かもしれないけど、身体が回復すれば、また自分で歩けるように——」


 なるよ、と言おうとして言葉が止まった。新里さんが殺さんばかりの目で僕を睨んでいたからだ。その憤怒の目から涙が一筋、目尻から地に落ちる。


「分かったようなこと言わないで」

 

 僕は新里さんの剥き出しの殺気から逃げるように目を伏せた。


 「ごめん」

 

 それきり、新里さんと僕の間に会話はなく、ただ川のせせらぎだけが2人の間を取り持っていた。



 

 30分ほど休憩して、僕はまた新里さんをおぶって歩み始める。川に沿って斜面を下って行く。せっかく見つけた水源から離れたくなかったからだ。

 それに、もし近くに集落があるなら、水が得られる川の近くにするのではないか、と踏んでのルートでもあった。中世ヨーロッパでは森の中に都市や村落があったと聞いたことがある。上手くいけば人に出会えるかもしれない。

 だが、僕は結局その考えの甘さに打ちのめされることになる。

 

 まず現れたのは1体だ。灰色のひび割れた肌に小学生くらいの背丈。肉食獣のような縦長の瞳孔の周りは赤く充血し、爪は鋭い。もしよくあるファンタジーの生き物に当てはめるのなら、それはまさしく『ゴブリン』だといえよう。

 そのゴブリンは武器もなく、酷く黒ずんだ赤色の布切れを腰に巻いているだけの、ほぼ丸腰状態だった。

 魚でも探しているのか、川の真ん中に立っていた。先に気がついたのはこちらだったが、程なくして、奴もこちらに気がついた。

 奴は川から上がり、意外にも用心深くこちらを窺いながら、少しずつ後退して僕らと距離を取っていた。

 

 僕はといえば固まって動けなかった。手には石ころが握られている。それを投げれば、あるいは一撃で敵を仕留められるかもしれない。だが、腕は動かなかった。

 敵を倒す、というのは、殺す、ということだ。ここはゲームの世界ではない。主人公人間に経験値を与えるためだけに生きている生物などいない。彼らにも彼らなりの人生がある。それを奪う覚悟が僕には決定的に足りていなかった。

 僕がもたもたしているうちに、ゴブリンは森の中に逃げ込み、視界から消えた。

 僕は戦わずに済んだことに胸を撫で下ろした。

 

 ——だが、これが間違いだったのだ。







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