第32話 東大農学部デートの二人 夙川の小説は頭に入らない

 速水瑛人と染野桂子は弥生キャンパスの農学部図書館に来ていた。農学部だと住所が弥生になるので弥生キャンパスである。ちなみに、この弥生地区で土器が発見された。そのため、弥生時代や弥生式土器と呼ばれている。


 染野の大学院試が終わったので、久しぶりに二人はキャンパス内で待ち合わせをした。先日、総合図書館で夙川隆作に出くわしたため、瑛人はそのことを気にして、ドーバー海峡を越えて農学部図書館までやってきたのであった。

 速水瑛人は夙川隆作の作品をめくっていた。

「勝手に送り付けられたんだけど、少しは読んでおかないと感想を求められたときに困る気がするんだ」

「ちょっと見せて」

 染野桂子は速水瑛人の読んでいる冊子をのぞき込んでいた。

「なんだか3冊もあるんだよ。いっそのこと、この冊子ごとあげるよ」

「村上春樹だったらもらうけど、これはいらないわよ」

 そういいつつも、染野は冊子に手を伸ばした。


 染野桂子が夙川隆作の冊子を手に取った時だった。冊子は青白く光り、染野の意識が飛んだように見えた。


「どうしたの?」

 瑛人の声に染野は、はっとして、冊子から手を離した。

「ほらほら、裏表紙の裏のところ見て。ほら、直筆のサインがあるわよ」

「ひょっとしてファンサービスのつもりだったんだろうか?わざわざ、サイン書く意味がわからないな」

「どんな話なの」

 瑛人はフランカーとF16の話を思い出したが、いうのをためらった。

「それがまた、ぜんぜん、頭に入らなくて・・・。そもそも、夙川はなんで俺の自宅の住所がわかったんだろう?」

 染野はちょっと気まずそうに答えた。

「瑛人君がいつも、鞄に定期券をくっつけてるから、それを見て自宅最寄り駅がわかったんじゃないのかな?」

 瑛人は、染野が自宅周辺に出没したことを思い出した。

「え、ひょっとして、夙川も俺の定期券を見てたってこと?だとして、自宅の正確な住所はどうやってわかったの?」

 二人の話は夙川隆作の小説から別の話題に移ってしまい、瑛人は夙川隆作の作品を読むのを中断した。

 

 東大農学部図書館の閉館時間は早い。17時になると閉館になってしまった。季節は9月。キャンパス内を秋風が吹いていた。

「ねえ、瑛人君。今度、家に遊びに行ってもいいかな?」

 瑛人は動揺した。自宅に父親の機密資料や旧日本軍の設計図があるからというより、以前、父に染野を食事に誘うように言われたことを思い出したからだった。

「あ、いや。親父が在宅勤務しているから」

「すぐには無理か」

 二人は図書館を出て徒歩で地下鉄の駅に向かって歩いている時、瑛人はふと染野の方を振り返った。

「桂子ちゃん、夙川は相手にしないで。すれ違っても挨拶もしない。わかったね」

「はいー」

 瑛人は何だか強い口調であった。しかし、染野桂子は何だかうれしかった。瑛人がやきもちを焼いたかと思ったからだった。染野は頬を赤くしながら瑛人の元に駆け寄った。

 夕暮れ迫る大学構内の中、固く手をつないだ二人。その影が長く地面にのびていた。

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