ミートマトン

 宙母キャリアを出たのは十三時間前。そのころは接敵なんてするはずないと思ってた。ただの辺境警備だったんだ。



 ゼロG歩行にはコツがいる。磁気スケートを全面的に信用すること、足裏の向いてる方を「下」と定義すること。

 アニメーションの矢印に従って、俺は壁を滑っていく。途中で落書きを見つけたので踏んでやった。二本の脚で直立するイカの回りに口汚い文句がずらりだ。スクィディオの想像図だろう。目撃証言はあるが捕虜は一匹もいない。絵はスケートに削られすぎて消えかかっていた。

 視界の端に映るのは今日のニュース――国際政府、デモを鎮圧。死傷者多数――敵対的買収で数兆ドル規模の軍事企業複合体コングロマリットが誕生――スクィディオとの戦線は木星軌道以遠まで後退――などなど。

 電球形戦闘機バルブファイターが見えてきた。壁に貼りついたバカでかい、銀色の電球だ。

 マヌケだって? 同意しよう。だがこいつは真空へ放り出されるってことを忘れないでほしい。対して俺には空気が必要だ。空気圧に耐えるのは球形殻が最善だし、その後ろへ推進機をつけなきゃならない。そうしたらほら、電球の形になるってわけだ。


「うわっ」


 ファイターの前でレーザーアレイを磨いてた整備士が、俺を見て声を上げた。と思う。格納庫は雑音だらけなんだ。使える壁を全部収納と整備に使っちまってるせいでまあ、うるさいのなんの。

 整備士はすぐ姿勢を正すと、俺に言った。


「もう終わりますんで。乗ってお待ちください」


 パイロットに対する敬意で満ちた顔。たしかに俺は、ユタの牧場から来た割にはよくやってる方だろう。だがこいつの表情はちょっとわざとらしい。


「わかった」

「おい! 工具箱はこっちへ置けって言ったろ!」


 整備士が助手へ滑り寄ると、いきなり工具で引っ叩いた。クローン大量生成施設マスクローナー生まれの肉人形ミートマトンだろうか? もしくは逆らわないよう条件づけされた囚人か。まあ待遇は似たようなものだが。

 俺はコクピットへ潜りこむと、マスクを装着した。黒いグローブに包まれた手で前側の壁を押す。シートに背中をつけるとすぐ身体が磁気固定された。後頭部へ小さな氷をくっつけたみたいな感触が頼もしい。システムが生きてるって証だ。プラグがインプラントへ接続されたかどうか確かめるため、脳直でテスト信号を送ってみる。


〈受信。感度良好〉

 

 コクピットが密閉されたとたん、世界が回転した。いや違う。背中にGがかかるといつもこうなる。人間はサバンナで生まれたのであって、決してゼロG空間で発生したわけじゃない。

 ふいに、シートを残してすべてが消え去った。見えるのは格納庫の景色だ。赤黒いトンネルが迫ってくる……まるで出産をもう一度経験してるみたいに。

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