第13話

 「ごちそうさまでした!」


「はい。お粗末さまでした」


 俺はそういう百合子さんの方に向き直り、あぐらをかいた両膝の上に手を置いて、


「今まで食べたどの料理よりも美味しかったですっ!」


「そ…… それは大袈裟じゃないかしら……」


 百合子さんは困った顔をして答えた。


「いえ! 俺はこの日のことを死ぬまで忘れるつもりはありません!」


 困った顔はどんどん引き攣ったような表情になり、さすがの俺でもその顔に「そこまで言われると重いのだけれど」と書いてあるのが読めてしまうほどだった。


「さ…… さあ、食器片付けちゃうわね」


 机の上にある食べ終わった食器やスプーンを手早く片付けようとする百合子さんを静止して、


「そんなのは俺がやりますよ! ほんと、こんな美味しいものを作っていただいてなんてお礼を言っていいか……」


「ほら、まだ完全に治ってないんだから、こういう時は甘えておけばいいのよ」


 俺の静止を振り切るのに力などいらなかった。

 百合子さんはただ、そう言って微笑むだけで俺の全身を脱力させるのには十分だった。

 俺はすん、とへたり込んでしまい、お椀と小鉢を重ねシンクへと運び、それらを水洗いする百合子さんに、ただただ見惚れているばかりであった。


(なんかお礼したいけどなあ……)


 そう考えるが、正直なにも思い浮かばない。


(今度なにか菓子折りでも買って渡すか。そうだ、香織さんなら百合子さんの好きなものだって知っているかもしれない。そうだなんて名案なんだ。頼むぞ香織さ……)


「あら、香織からだわ。何かしら」


 水道の蛇口を閉め、かかっていたタオルで手を拭いてスマホケースのカバーを開いた百合子さんがそう呟いた。

 ちょうど彼女のことを考えていると、百合子さんに電話がかかってきたらしい。


「もしもし香織? どうしたの?うん、大丈夫。さっき料理作って食べてもらったところよ。うん…… はあ?あなた何言ってるの。康太は今日中に迎えに行きます。…… うん、うん。え、…… いるけど。わかった今代わるね…… 櫻井くん、香織が櫻井くんに少し代わってって」


 「あ、はい」


 差し出されたスマホを耳に当て、


 「もしもし、櫻井です」


 『わたしに何か言うことは?』


 「本当にありがとうございます」


 俺は電話越しの香織さんにも届くように深くお辞儀した。

 香織さんがわざわざ百合子さんに、俺の家に行って様子を見てくれるように口添えしたのだろう。感謝しかない。


 「な…… 何に感謝してるの櫻井くん……」


 その様子を見ていた百合子さんは一言。


 『体調はもう大丈夫なのか?』


 「おかげさまで。心配おかけしました」


 『ううん。ならよかった。それで、本題なんだけどね』


 えっ、今のが本題じゃないの?

 俺の心配はついでってことか……。


 『いま、わたしが康太くんを預かってるんだ』


 「はい。それは聞きました」


 『それで、康太くんは今日わたしの家に泊まるから、君は百合子を家に泊めてあげて欲しいんだ』


 「………… はあぁぁ?!」


 俺は驚きのあまり立ち上がった。


 『って言ったら百合子に怒られたんだよ』


 「当たり前だ!」


 『だから、折衷案として夜八時までわたしが康太くんと遊んでることになったから、君は百合子の相手を頼んだよ』


 「なっ……?!」


 百合子さんの方を見ると、彼女は諦めたように目を瞑って頭を横に振る。


 『じゃあ、そういう事だからよろしく! あ、康太くんチョット待っててねえ〜 もう少しでお話終わるから、そしたらお姉さんとお風呂入ろ〜ね〜 …… そうだ、ちゃんと百合子にお礼するんだぞ』


 そう言い残して、プツンっと電話は切れてしまった。

 こ…… 康太くんの性癖が歪まなければいいが。

 

 「あの…… これ。切れちゃいました」


 「逃げたわね」


 そう言いながら彼女はスマホを受け取り、


 「香織、なんて言ってた?」


 「8時まで康太くんは預かるって…… あ、あと今から2人でお風呂入るみたいでした」


 「な…… なにそれ聞いてないわよ!」


 「お、俺に言われても!」


 はあ、とため息をつき百合子さんは、


「他には何か言ってたかしら?」


「あ、あと、ちゃんとお礼しておくようにって言われました。まあ、それは言われなくてもするつもりでしたけどね」


「そんなのいいわよ?」


「いえいえ、そういうわけにはいきませんよ!今度、何か買ってきますんで」


「もう…… 一人暮らしでお金節約しないとでしょ? そんなことに使わなくていいわよ」


 うう…… そんな心配をされてしまう自分が不甲斐ない。

 でも、わざわざ家にまで来てもらって、加えてあんなに美味しい手料理まで振舞ってもらって、何もお礼をしないというのは俺の心が痛む。

 そんなふうに悩んでいるのが顔に出ていたのだろうか、百合子さんは俺に、


「それじゃあ、一つお願いがあるのだけどいいかしら?」


 その言葉に俺は前のめりになって、


「ぜひ! なんでも言ってください! 百合子さんの頼みなら、俺ほんとうになんでも聞きます!」

 


「香織が最近あなたが新しい小説を書いたって言っていたけど、それを少し読ませてくれないかしら」

 


 時間が俺を置き去りにしていったのかと思った。

 百合子さんが俺の小説を読みたい……?

 しかも、この前のデートを参考に書いたあれを……?


「あ…… もちろん、えっちな小説自体に興味があるとかそういうのではなくてね、あなたがどんな小説を書いているのかが気になって……」


「いや、むりむりむりむりむりむりむりですって!」


「さっきなんでもするって言ってた気がするんだけどなあ」


 こんな時に限って、いつもと違って不貞腐れた年下の女の子のような態度をする百合子さん。


(可愛すぎるけれども……!)


「い…… いいましたけど、そんなこと百合子さんに言われる何て考えてなかったから!」


「ふーん…… そういうことね。香織には見せられて、わたしには見せられないってことね。そっかそっか……。あーわたし今日、お仕事が終わってから心配で急いで来たんだけどなあ。途中スーパーで買い物して。そういえばお料理も作ってあげたなあ。でも、そっかそっか。康太だけじゃなくて櫻井くんも香織がいいってことね……」


 百合子さんはわざとらしく、俺にいじわるをするように饒舌になる。

 だめだ俺、この可愛さに負けてはいけない……。


「そ…… その、『人妻は美人四姉妹』ならありますけど……」


 勝てるわけがなかった。


「やだ」


「えええぇぇええ!」


 なんで?!


「だってあなたこの前のデートでなにか小説の参考になればと思っていたのでしょ? だから、わたしとのデートをどう参考にして新しい小説を書いたのか気になっちゃって」


「それは絶対に無理ですっ! 見せられませんっ!」


「なんでよ!」


 な…… なんでって、だってあれは……。

 あんな百合子さんの妄想全開小説を読まれたら……。


「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫よ。わたしも大人よ。別にそういうのを見たくらいで茶化したりしないわよ」


「そ…… そういう問題じゃなくてですね……」


 いや、もちろん恥ずかしくもあるけれども……。

 

「その…… やっぱり、百合子さんとのデートを参考にしているので…… その、なんといいますか…… 本人に見せるのは恥ずかしいというか…… なんというか……」


 歯切れの悪い言い方をする俺に、


「その本人が見せてっていってるんだから問題ないじゃない」


 と微笑みながら答える。

 この人に想像力と羞恥心というものはないのか!

 いや、そんなはずはない。最初の方、その手の話を恥ずかしそうに…… 待てよ。そもそも、きっとあの香織さんにゴリ押しされたのだろうとはいえ、官能小説の執筆に思い悩む若者に手を差し伸べようとする人だ、そういうことには意外とおおらかなのかもしれない。

 だからって、見せられるわけないのだが!

 そういえば、香織さんにはどこまでその小説のことを聞いているのだろうか。


「か…… 香織さんは、その小説についてな…… なにか言ってました?」


「『あんたとデートして一週間もかからないで本一冊書いてきたわよあの子。ほんと書くのだけは超絶早いんだから』って褒めてたわよ」


 さ、さすがに百合子さんを100%モデルにした女性があんなことやこんなことをさせられてるのは知らないか。

 むしろ、それを知っていて読んでみたいなんて言っていたら百合子さんは痴女だ……。


「香織に見せた時はそのパソコンで見せたの?」


「いえ、印刷してまとめた原稿を持って行きましたよ。香織さんはパソコンで読むより、ペンをもって自分の手で書き込みながら読む方がいいみたいなので」


「ふーん。ちなみになんだけど……」


 そういって百合子さんは、部屋の隅の方を指差した。


「部屋に入ってきた時からあの隅っこにある段ボールがなんだか怪しいと思ってたのよね」


「それはほんとに違いますっ!」


 オナホとローションっ!


 だが、その焦りを原稿の隠し場所がばれたことによる焦りととったのか、百合子さんはニヤリと笑うと、イタズラ好きの小学生のように、


「あそこねっ!」


 そんな百合子さんをすぐに追いかける。

 彼女の方がすこし近くに座っていたから、もちろん先に手をかける。

 俺は後ろから追いついて、必死にその手ダンボールから引き剥がそうとする。

 手に触れるのはもちろんこの時が初めてだったが、そんなことを言ってる余裕など俺にはなかった。


「百合子さん…… ほ、ほんとにっ…… ここには…… 原稿はないですよっ!」

「なら…… みせられるじゃない!」

「ち…… ちがうから見せられないんです……よっ!」

「どういうこと……よっ!」


「きゃっ……!」「うおっ……!」

 

 と、その瞬間、百合子さんの左手がダンボールから急にすぽんと抜けてバランスが崩れ、後ろに倒れてしまい、手を掴んでいた俺はそれにつられて彼女に覆い被さるような状態になった。


「さ…… 櫻井くん……?」


 俺が押し倒したかのようなその姿勢……。

 息をするごとに、百合子さんの胸が上下に動く。

 倒れる瞬間に上擦ったブラウスの首元はよれて、なんだか見てはいけないものが見えてしまいそうになっていて、下の方へ目を移すと、白く柔らかそうな腹部がちらりとのぞいている。


「ゆ……百合子さん……」


 すぐに謝って離れるべきなのだろうけれど、その光景の魔力に縛られてしまったかのように、石になって動けない。

 外に響く夕方の雑音が二人の沈黙の間に流れる……。

 お互いがお互いの瞳の中に映る自分を見つめ、まるで、時の流れの中に二人だけが置き去りにされたみたいに……。


 ピンポーン


 そんな魔法を解くかのように、誰かがインターホンを鳴らす音がした。

 百合子さんは、はっとした表情をして、


「さ……櫻井くん。お客さん……」


「す、すみません! 俺……」


 ピンポーン ピンポンピンポン ピンポーン!


 そんな二人のやりとりをこれでもかと邪魔するように、誰だか知らない客はインターホンを連打している。


「だ……大丈夫だから、はやく出てあげて」


 俺は念には念をいれてダンボールを抱えて玄関まで行く。


「ちゃ、ちゃっかりしてるわね……」


 そんな百合子さんのツッコミを背中で受け止めながら、


「はいはい…… いまでますよ」


 鍵をあけて扉を開く。


「な、なんだかすごい音がしましたけど大丈夫ですか櫻井さん?」


 俺は驚きのあまり、ダンボールを落とした。


 「芽衣?!」

 

 中からはローションがコロコロと転がり出て、芽衣の足にコツンと当たって止まった。

 芽衣はそれを拾い上げると、部屋の中を一瞥する。

 彼女の視線を追ってそちらを見ると、ばっちりと百合子さんが見えていた。


「櫻井さん。お話があります」

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