第12話

 インターホンの音に目が覚めて、扉を開けると、そこに居たのは百合子さんだった。


「体調大丈夫かしら?」


 以前着ていたのとは違う白いブラウスに、パステルピンクのフレアスカート姿の百合子さんは、朝バイト先で見たのと同じような心配そうな顔でそう言った。

 

 ばんっ!

 俺は瞬間、扉を閉めた。


「ちょ、ちょっと櫻井くん! なんで閉めちゃうの!」


 扉越しに抗議する百合子さんの可愛らしい声が聴こえ、ハッとして再び開ける。


 「す、すみません。驚きすぎてつい反射的に。てか、なんで俺の家知ってるんですか!」


「香織に聞いたのよ。前に一人暮らしだって聞いてたから、ちゃんとご飯とか食べられてるのか心配で。一応、香織に連絡したらお家を教えてくれて、わたし仕事終わってから急いで息子をあずけて来たのよ?」


 そ、そこまでしてくれるなんて……。

 まさに聖母……。


「す、すみません。そんな心配かけてしまって……。それに息子さんと香織さんにも……」


 俺がそういうと、百合子さんは何かを思い出したかのように不機嫌になって、


「いいのよあの二人のことはほっといて」


「い、一体なにがあったんですか」


「わたしが家に帰ってから、『ちょっと用事ができちゃって何時に帰ってくるかわからないから香織ちゃんのところで待っててくれる?』って聞いたら息子ったら、わーいやったあだとか、早く行きたいだとか、すごく嬉しそうにして。そんなにわたしより香織のほうがいいのかしら?」


 あ、あれはほんとだったんだ……。

 不貞腐れてる百合子さんも可愛いなあ。


 「は…… はは。子供は非日常が好きなだけですよ」


「だといいのだけれど…… 香織も香織なのよ。『将来のわたしの旦那さんのことはいつでも任せて』って」


 あの人、仕事は大丈夫なのだろうか……。


「それより、ほらこれ……」


 そう言って百合子さんは買い物袋を持ち上げて、


「ご飯作ってあげるからはやく中に入れてよ」


「え?」


「ん? なにか問題あるかしら?」


「いや、問題はないんですけどっ!」


 ゆ……百合子さんが俺の部屋に!

 そんな日がまさか来るとは……


「そんな、そこまでしてもらうなんて悪いですよ……」


 そういう俺に百合子さんは、はあとため息をついて、


「逆にここまでしてきて追い返すほうがどうかんがえても悪いわよ」


 きっとモテる男というのは、こういうありがたく受け取っておく好意と丁重に断るべき場面との区別が上手いやつのことなんだろう。

 一度深く息を吸い、よしと心の中で意を決して、


「す…… すみません、少し片付けてきますね」


「わたしが急に来たんだから気にしないわよ」

 

 百合子さんが気にしなくても俺が……。

 って言っても薬飲んで寝てただけだし、今更、掃除したところで何も変わらないだろと潔く諦めた俺は、


「すみません。なにもないですけれど」


 といって百合子さんを部屋にあげた。


「ふふ大丈夫よ。一人暮らしの男の子の部屋になにかあるとは期待してないから」


 別の何かなら出てくるかも…… そこまで考えて、俺は急速に寝る前の自分の行動を思い出した。

 ティッシュ!

 すぐに俺は行動に移し、高校時代に柔道の授業で培った前周り受け身の技術を駆使し、手早くそれを回収して、薬局で処方された薬の入っていたビニール袋に詰めて、口を縛ってゴミ箱に捨てた。


「げ…… 元気そうでよかったわ…… なんだか必死に証拠隠滅を図ったように見えたけれど……」


「ひ、人聞きの悪い!」


「でもまあ……」


 と、百合子さんはいじわるな顔で探るように部屋を見渡し、


「確かに年頃の男の子の部屋には見られたくないものの一つや二つありそうよね」


 ぎくっ!


「ベッドの下なんかが定番らしいけど、布団みたいだものね……」


「い、いや、今やネットでなんでも探せる時代に、えっちな本の現物を持ってるやつがいたらそいつはだいぶ本物の変態ですって」


 と抗議すると、つまらなそうな顔をして、


「ま、それもそうね」


 百合子さんは唇を尖らせて不満そうな顔をしながら納得してくれたようだ。

 

(そんな俺のえっちコレクションが見たかったのか百合子さん。なんてえっちなんだ…… じゃなくて!)


 俺は視線をわずかに動かし周囲を確認する。


(よし。オナホとローションはしっかりと隠されている)


 なんでもネットを通して見られる時代にはなったが、これだけはどうしても現物が必要なのだ。


「それにしても、結構、綺麗にしてるのね。うわ…… すごい……これ全部、本?」


 ワンルームの我が家は、わざわざ部屋の中を案内することもなしにひと目でその全体を捉えることができるのだが、そこには、今し方寝ていた布団とちゃぶ台のようなテーブル、そして壁の一面を埋める高さの違う大小それぞれの本棚。

 百合子さんはの本棚に近づいて、興味深そうに眺める。


「もっとこう『人妻は美人四姉妹』みたいなのがたくさんあるのだと思っていたけど、案外そんなことないのね……」


 百合子さんは、さも「漫画ばかり読んでると思ったけれどそんなことないのね」みたいなテンションでそう言った。

 

「げほっ! げほっ……」


「あら、やっぱりまだ体調悪そうね」


「ち……ちがいます! なんで百合子さんが知ってるんですか!」

 

 「香織に教えてもらったのよ」


 全部あの人か!


「そ…… そういうのは、電子書籍で買ってるんですよ」


「ふーん……」


 百合子さんは俺の方を向くと、全部お見通しだとでもいうような目つきで、


「どうりで一人暮らしの男の子の部屋にしては普通すぎると思ったのよね。電子ね…… へえー」


 な、なにを納得したんだろうか……。


「ま、はやく料理作っちゃうわね。どうせ、このキッチンと…… 冷蔵庫の様子じゃあ、あまり食べてないんでしょう?」


 「そ……その通りです」


「雑炊なら食べれるかしら? 何か苦手なものがあれば言ってね」


 そういうと、キッチンに立って手早く準備を始める。


「いえ、全然。むしろほんとなんでも…… 申し訳ないです」


「ふふ。わたしが勝手に来たんだからそんな謝らなくていいわよ」


 俺は、自分の部屋のキッチンに立って料理を始める百合子さんの姿に見惚れていた。

 すると、百合子さんは、手首につけていたゴムを口に咥え、後ろ手に髪の毛をまとめる。

 両手を挙げて胸を張るような格好のそれはあまりにも刺激的な光景だった。

 白いうなじがちらりと覗き、そのまま器用にくるくると髪を束ねる。

 髪の毛がふさりと垂れ下がる時、風に乗せられてフローラルな甘い匂いが俺の鼻をくすぐった。

 ぼけぇとして立ち尽くしていたが、


「…… はっ! ゆ…… 百合子さん、俺も手伝いますよ」


「んー大丈夫よ。櫻井くんはゆっくり休んでなさい」


 百合子さんはこちらを向くこともなく、淡々と料理をすすめながらそう言った。

 テキパキとしたその様と、俺もよく知る我が家のキッチンの狭さでは確かに手伝うどころかかえって邪魔になりそうだったので、俺は机の上のパソコンに向かって、書きかけの小説の続きを書くことにした。

 しかし、もちろん集中などできるはずもなく、手早く長ネギやしめじを包丁で切る百合子さんをチラチラと横目で盗み見てしまう。


(な…… なんだこの空間は…… いかんいかん、また前みたいにイケナイ想像をして下半身が恥ずかしいことになりでもしたら、こんどこそ部屋の中でなんて洒落にならない。集中、集中……)


 再びパソコンを開いて続きを書く。


 『百合は、そういって跪くと、手首にはめていたヘアゴムを口を使って器用に外し、それを咥えたまま両手を後ろに回して髪をまとめる。ノースリーブの白いブラウスを着ていた百合の白くてすべすべとした大理石のような両脇が視界に眩しく映った。それから、咥えたヘアゴムでまとめた髪を結ぶと、「おまたせ」と一言言って、ズボンのベルトに手をかけた……』


(……ってダメだ! さっきの光景がチラついて、まんまそのままになってしまう。香織さんにあれほど言われたのに…… というか、これじゃあむしろ逆効果じゃないか?!)


 「どうすればいいんだあああああ」と心の中で叫びながら頭を抱えて項垂れていると、


 「出来たわよ」


 「うわっとっ!」


 俺はその声に驚いて目の前のノートパソコンを勢いよく閉じる。

 これじゃ実家に居た時と同じだっ!


「そ…… そんなに驚く?」


「あ、いえ、考え事をしていたもので……」


 まさか、百合子さんの振る舞いを官能小説に落とし込んでいましたとはいえないから、適当に誤魔化して、畳んだノートパソコンをそこら辺の床に放る。


「はい。お待たせしました。食器なんか勝手に出して使わせてもらったけれどよかったかしら?」


 そう言って、百合子さんは机の上に料理を運んでくれる。

 俺は百合子さんの質問に答えることなく、目の前に出されたものを夢中で眺めてしまった。

 卵をといた雑炊は、黄金色に光っていて、湯気をあげている。上には白髪ネギと鶏肉が載っていていかにも美味しそうだ。中には、さっき百合子さんが切っているのを見た長ネギとしめじが入っている。そして、脇には、梅干しとわさびが入った二つの小鉢が添えられていた。


 ぐぅーーーー


「…………っ」


 目の前の食事に反応して、思い出したかのように俺の腹は空腹を告げる音をあげた。


「ふふ。よっぽどお腹空いてたのかしら」


 ほとんど涎を垂らさんばかりの俺に優しく微笑みかけて、はやくめしあがれとうながす。


「ほんとうにありがとうございますっ! いただきますっ!」


「めしあがれ」


 そう言って、百合子さんは俺の横にちょこんと座った。

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