第10話
「櫻井さん…… わたし、こんなところに連れてこられるなんて……」
芽衣は真剣な顔で俺を見つめ、そう言った。
さっきまで涙を流していた彼女の瞳は吸い込まれるように綺麗に輝いている。
「芽衣。こうするしかなかったんだ……」
「でもわたし、てっきり……」
そう言って彼女は、
「ホテルに連れ込まれると思ってたのになんで本屋さんなんですかっ!!!!」
「ばかっ! 本屋で大声をあげるやつがいるかっ!」
俺たちに視線を向ける周囲の人に頭を下げる。
「ホテルなんか行くわけねえだろ」
「あの流れはまさしく櫻井さんが『どしたん話聞こうか』っていって弱みを見せたわたしをホテルに連れ込んであんなことやこんなことをしちゃう流れだったじゃないですか」
「そんな流れはない! ただ、お前がいう『どしたん話聞こうか』だけはやってやる」
「え、本屋でですか?」
その、マジ? ここで人の悩みを解決しようとする奴なんているのみたいな眼差しで俺をみるのはやめろ。
てか、今からやるのはホテルに連れ込む以上に俺にとって勇気のいる行動なんだから。
…… いや、それはないか。冷静に考えて。
「そうだ。ちょっとついてこい」
俺は先を歩いてするすると目的の場所まで歩みを進める。
そこには、明らかに背表紙が他の書籍と一線を画している本がずらりと陳列された本棚がある。
周りには、二人ほど先客がいた。
一人は、もはや社会の目など超越してしまった超人。彼は不動の佇まいで、そこにある本を物色していた。
もう一人は、その境地まで辿り着けない修行者。彼は、周囲に人がいないのを確認するまで、ふらふらと周りの本棚を歩き、接近するタイミングを伺っていた。
「こ、ここってえっちな小説のコーナーですよね……」
真剣に書物に目を通していた超人も、女性の声にはさすがに反応せざる終えなかったのか、ちらりとこちらをみてから、不快そうな面持ちで再び元の姿勢にもどる。
バカップルの何かのプレイだと思われてしまったのだろう。
変態紳士同盟から爪弾きにされる前に、俺は手早く目的の書物を手に取って、少し離れた周りにあまり人のいない場所に移る。
「え、わたしは今なにを見せられているんですか? 先輩がわたしの手を掴んでカラオケから連れ出したかと思ったら、本屋で一直線にえっちな小説のコーナーに行き、迷うことなく一冊の本を手に取って…… え?」
芽衣の理解が追いついてないらしい。
それもそうだろう。
「これだ。俺が芽衣に見せたかった本」
そう言って俺は手に取った本、『人妻は美人四姉妹 作者 櫻井公威』を渡す。
「えーっと。え? ほんとうにこれはなんですか?」
そう言って、芽衣は一応渡された本を眺める。
「人妻は…… 櫻井……? 櫻井さんと同じ苗字ですね」
「俺」
「え?」
「それ書いたの俺」
「これ書いたの櫻井さん」
芽衣は思考の止まった機械的な返事をする。
それはまるで嵐の前の静けさのようで、
「えぇええぇぇぇぇぇぇ!!…… もごっ!!」
「だから声がでかいってっ!」
先ほどとは比べ物にならない大声をあげていたので、咄嗟に口を塞いでしまった。
「だっ、だって…… これを…… 櫻井さんが……」
そう言いながら芽衣は、本と俺とを交互に見つめるのを何度も繰り返す。
「ほら、俺の仕事…… 前に芽衣が聞いただろ…… その、こういう小説を書いてるって恥ずかしくていえなかったから隠してたけど…… まあ、そのなんだ、そういうことなんです」
「じゃ、じゃあなんで今日、教えてくれたんですか?」
「芽衣がさっき言ってただろ。自分がこのままでいいのかわからなくて不安になるって。俺もさ、小説を書いてるっていっても、まともに売れたのはその一冊だけなんだ。そのあとは鳴かず飛ばずで、今なんて絶賛スランプ中。なにをどうすればいいのかわからなくて、このままでいいのかって不安になることもある。なんか、俺もそんな状態だから、別に芽衣に具体的なアドバイスなんて全然できないんだけど、ただお前の気持ちはわかってあげられるって、それだけは伝えたくて……」
「櫻井さんっ!」
芽衣はがばっと俺に抱きついてくる。
やめてやめて、あまり急にそう言うことをするのはやめてっ!
特に俺の下半身に身体を接触させないで!
「ちょっ…… 芽衣っ、お願いだから離れてくれ」
「いやです」
マジで離れて!
このままじゃバイト先の後輩に抱きつかれて勃起する変態野郎の汚名を頂戴することになる!
俺は、上半身で芽衣を引き剥がしながら、下半身はジリジリと後ろに下げ、彼女の身体と密着するのを防ぐという、さながら彫刻のラオコオンのような奇妙なバロック的体勢をとった。
努力の甲斐あり、ようやく離れてくれた芽衣は、
「ありがとうございます櫻井さん。こんな恥ずかしい秘密を暴露してまでわたしを元気づけようとしてくれたんですね」
「人の仕事を恥ずかしい呼ばわりするのはやめてくれ……」
あっという声とともに、自分の手を口で押さえた彼女は、
「そんなつもりじゃなかったんです……」
「はは 大丈夫だよわかってるから」
と、芽衣がそんな子ではないと知っているから、ほんとうになんとも思っていなかったのだが、彼女は「いいえ! 証拠を見せなければわたしの気がすみません!」というなりスタスタどこかへ行ってしまう。
彼女のあとを追いかけると……
「948円になります」
「あ、ペイペイで」
「ちょっとまてー!」
キャッシュレス決済でスマートに官能小説を購入する林原 芽衣の姿があった。
「ふっふふーん ふっふふーん」
ご機嫌そうに本屋の袋を手に下げる芽衣と、その隣で項垂れる俺。
「櫻井さん帰ったらすぐ読みますね!」
「読まんでいい!」
「いいえ、読んで感想を原稿用紙30枚にまとめてきます!」
「絶対にやめてくれ!」
「でも、わたし一つだけ気になることがあります…………」
そういうと彼女はおもむろに袋の中から購入した本を取り出し、俺に突き出すようにして見せ、そのタイトルを指さす。
「人妻は!美人!四姉妹っ!なんですかこれはっ!」
「あ、あはは えーっと…… 芽衣さん……?」
「やっぱ人妻大好きじゃないですか!!」
「それは違うんだ!」
「何も違わないですよっ!」
確かに!
「ふんっ」
ほんと喜怒哀楽の激しい奴だ。
さっきは嬉しそうに抱きついてまできたと思ったら、今度は臍を曲げてわざとらしく俺とは反対方向を見続けている。
頼むから真っ直ぐ前を向いて歩いてほしい。
「そういえば」
と何かを思い出したように、こちらを向く。
今までのずっと演技だったろ……絶対に。
「そういえば、新しい小説に困ってるって言ってましたよね」
「ああ、まあな」
「こういうのはどうです? 」
芽衣の提案に俺は耳を貸す。
18歳の自称おとめが(別に疑っているわけではないのだが)、はたしてどのようなえっちストーリーを展開するのか、お手並み拝見といこうじゃないか。
「ヒロインは主人公のバイト先の後輩で」
「うんうん」
「実はえっちなことに興味がしんしん」
「うん、ありそうだ」
「ある日、主人公とデートに行くことになるんですけど、彼女は実はある悩みを抱えていたんです」
「…… なんかどっかで聞いた事あるような」
「ヒロインはその悩みを主人公に打ち明け、涙を流していると主人公に……」
「…………」
「『俺がお前のことを慰めてやるよ』って言われてホテルに連れ込まれちゃうんです」
「最後だけちがう!」
こうして、今回のデート? も無事に終わりに近づいたのだが、芽衣と遊ぶのは百合子さんとは違う意味で疲れた。
百合子さんとデートした時は、恥ずかしかったり、ドキドキしたり、ともかくまあ色々と疲れたが、今回は芽衣のパワフルさに終始振り回されていた。
再び、待ち合わせ場所のモニュメントの前に戻ると芽衣は、
「そういえば、櫻井さんがえちえちな小説を書いてるってことを知ってるのわたしだけですよね」
「ん? あ、ああ。まあ、そうだな」
百合子さんも知ってるって言ったらなんでってなるもんな。黙っておいた方が良さそうだ。
「へへへ 2人だけの秘密、できちゃいましたね」
そう言って嬉しそうに笑う芽衣に、ごめん二人だけじゃないんだ、とは言えなかった。
「知ってますか? 2人だけの秘密がある男女は親密になるって研究結果があるんですって」
「そうなのか?もう十分、仲良いだろ」
「そ、そういうのじゃないと思うんです」
「じゃあどういうの」
「もっとこう! 仲がいいんです!」
「なんのこっちゃ」
わけがわからん。
「ほんとに送っていかなくていいのか?」
「今日のところは勘弁しておいてあげます」
「なんで上からなの……」
「お家、完全に反対方向なので流石に悪いです」
「そうか?」
まあ、無理に家まで送ると言っても、若干ストーカーチックなのでここは撤退しておく。
「じゃあ気をつけて帰れよ」
そういう俺に、芽衣はずいっと彼女独特の距離感で近づき、
「今度遊ぶ時はホテルに連れ込んでくれてもいいですからね」
と、前の別れ際の百合子さんよりも直接的な言い方をしてくる。
だが、一瞬ドキッとしてすぐに、
「いいから、バカ言ってないで早く帰れ」
「もう! 帰ったらすぐに読んでやる」
「それだけはやめてって!」
懇願する俺に背を向けて歩き去り、しばらくしたところで振り返って、
「今度会った時、感想! 楽しみにしておいてくださいね!」
俺は「はいはい」という意味を込めて手を振ってやる。
去り行く芽衣が、数歩進むごとにこちらを振り向くから、そのたびに手を振ってやる。
ようやくその背中が見えなくなって俺は一言、
「めっちゃ疲れた……」
休日に妹に付き合う兄の気持ちはこんな感じなのだろうか……。
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