第5話
「へえ、美術館ね」
「そうです。美術館です」
俺は、駅から歩いて公園を通り抜け、その先にある美術館に百合子さんを案内した。
「櫻井くんってこう言うの好きなんだね」
「そんな詳しいわけじゃないですけど、時折くるんですよ。ここ常設展のレベルが高くて」
「常設展?」
「あ、常設展ってのはその美術館にいつ行っても見られる作品が展示されているもので、それとは反対に企画展っていって有名画家なんかの作品をまとめて決まった期間だけ展示しているイベントが…… あ、ほら今は印象派展ってのをやってますね」
「へえ……」
しまっ…… オタク特有の早口が……
と思ったら、そんなことは気にする素振りもなく、中庭に展示されている彫刻をフラフラと眺めている。
そしておもむろに、
「でも、意外じゃないと言えば意外じゃないか。だってそう言うことでしょ。こういうのって、ほら。女の人の裸とか、ね」
「それ目当てで見に来てるわけじゃないですよ?!」
「あら、そうなの。てっきり……」
「確かに、そういうものを見て、もし自分がそれを言葉で表現するならとかは考えたことありますけどね!」
「やっぱり!」
手を叩いて喜んでいる。内容よりも、純粋に正解したことが嬉しいみたいだ。
「でも……」
「でも?」
「でも、やっぱり絵画と言葉では全然、別物です。俺たち小説家が絵に書かれたものを言葉で表そうとしても、そんなもの絵画に太刀打ちできるわけがありません。言葉には言葉にしか表現出来ないものがあります。それがなにかは、今の俺には分かりませんけど、でも、いつかそういうものが書けるなら……」
と、ここまで喋って、やっとやらかしたと気がついた。
別に興味のないものを熱く語られても反応に困るだろ。
「……って、こんな話、興味ないですよね」
俺は恐る恐る百合子さんの方を向く。
百合子さんは、ぽけえとした顔をして俺の方を見ている。
「ゆ、百合子さん……?」
「あ、いえ…… ごめんなさい。なんでもないの」
「そ、そうですか? ならいいですけど」
これからは気をつけないとな。
自分の話ばかりをする男は嫌われる。
俺の少ないデート知識に詰め込まれているのはこれと、あとはレストランでは女性にソファー席を譲るということの2つしかないのだから。
そう決意を固めていると、
ムニッ。
「えっ?!」
百合子さんは俺の腕を掴み、
「ほら、はやく中に入りましょ。まずは入場券を買えばいいのよね?」
いや、胸!胸!胸が当たってる!
「二百円……」
購入した入場券を見つめて、百合子さんはポツリと呟く。
「はは。初めてくると、びっくりしますよね」
「もっと高いものかと思ってたわ」
「企画展の方は二千円とかしますけどね」
「そっちの方は買わなくてよかったの?」
「企画展の方は、一人の画家とか、ひとつのムーブメントなんかをテーマにすることが多いんですよ。でも、初めてくる人には、一通り絵画の歴史を体験できる常設展の方がいいかなって思いまして」
「ふふふ」
「な、何がおかしいんですか?」
「いえ、ちゃんとデートプラン考えてるじゃないって思って」
「あ、いやこれはちがくて……!」
これは違くて、もし誰かを美術館に連れて来た時のことをいつもイメトレしてて、なんていうのは余計なことだと思ってそこで言葉を止めた。
「ちがくて?」
「いえ、なんでもないです……」
ん? という顔をする由里子さんだが、すぐに入場口につき、その話題はそれっきりになる。
「うわぁ…… 確かにこれはすごいね」
館内に入って、百合子さんはトーンダウンして感嘆の声をあげる。
その少し息が抜けるような吐息混じりの声と、声が聞こえるように少し近づく百合子さんに、俺はどきりとせずにはいられない。
「ですよね」
「わたし、絵画のこと全然わからないからよろしくね」
「俺も全然わからないから大丈夫ですよ」
「でも、よく来るってことはなにか考えながら見てるんでしょう?」
「うーん……」
少し考えてから話す。
「あんま考えてないですね……」
「えっ……」
薄暗い館内でも、百合子さんの、じゃあお前は何しに来てるんだよ顔ははっきりとわかった。
「なんていうか、土にタネを植える感覚なんですよ。俺の頭の回転が遅いからかもしれませんが、はじめて観た絵なんかはとりあえずそういうものかって納得しておくんです。それから、1ヶ月、半年、あるいは数年とか経ってから、ある日、突然その時見た絵のことが心に浮かんでくることがあるんです。いろんな経験がタネに与える水のような役割をするんでしょうね。だから、とりあえず観て、あとはその絵が自ずと心の中に浮かんでくるのを待ってますね。だから、百合子さんも……」
とそこで、百合子さんの顔を見ると、彼女はまたあのぽけえとした顔をしている。
しまった! またやらかしたか俺?!
聞かれたから答えたが、もっと簡潔に答えるべきだった……
そ、それとも…… 性交のメタファーだと思われた?! いや…… それは考えすぎか。
「……わたしも?」
「え?」
「その続きは?」
「ああ。だから百合子さんも、今日は好きなように観てください。きっと、今日観た絵の中で1枚くらいは、いつか思い出す日が来ると思いますよ」
百合子さんは全てを聞き終わると、優しく微笑んで、
「ふふ。ありがとう櫻井くん。あ、でも、ずっと黙って一緒に絵を見るのはいやよ。感想くらいは言ってもいいわよね?」
今度は俺が笑う番だった。
「もちろん。ぜひ聞かせてくださいね」
それから俺たちは二人並んで絵を鑑賞して歩いた。
「観てこれ、ほんとうの涙みたい……」
「俺もこれを初めて観た時びっくりしました」
「ほら、櫻井くん」
そう言って、百合子さんが指さしたのは、目に涙を溜めて天を見上げる上半身裸の女性を描いたものだった。
「ほらってなんですか!」
俺は小さい声でツッコむ。
「あはは。別に照れなくてもいいのに」
「照れてませんから!」
「ねえ、この絵、真っ白よ……」
「真っ白ですね。もしかしたら、バカには観えない絵が描いてあるのかも……」
そういうと、百合子さんは顎を少し上に突き出してジトーッとした目つきで、
「櫻井くん?」
「うそうそ! いや、ほんとだったとしても俺にも観えてませんから安心してくださいっ!」
そうして、和気藹々と鑑賞を続ける。
(あれ、俺も意外とデートできてるのでは……?)
そう自意識過剰な意識に酔いしれていると、一枚の絵の前に着き、つい足を止めてしまう。
(アンゲリカ・カウフマンの『パリスを戦場へ誘うヘクトール』 やっぱり、つい足が止まるな……)
「この絵がどうかしたの?」
「……ああ、いやなんでもないですよ」
デートの鉄則、デートの鉄則。
「……そう?」
その後に続く印象派の展示室は、開催されていた企画展の方に回されていてほとんど観る作品がなかったから、俺と百合子さんは足早に通り過ぎていったが、それでもたっぷりと2時間近くは二人で美術館を楽しんだ。
「はじめてだったけれど、すごく楽しかったわ」
「ほんとうですか? ならよかったです」
「こういうのって小さい頃から子供に触れさせておくといいなんて言うじゃない? だから、今度は子供と一緒に来ようかしら」
「いいですね。俺は大学生とかになってから初めて来たので、こんなふうに成長しちゃいましたけど、小さい頃から連れて来たらきっと女性とまともにデートのできる立派な紳士に育ちますよ」
「ふふ。なにそれ。櫻井くんも立派にできてたじゃない」
「そうですかね?」
「香織に言っておくわ、櫻井くんにエスコートしてもらったってね」
「ぜひ強く言い聞かせておいてください」
「え、ええ…… そ、それより、少しお腹すかない?」
「確かにそうですね」
「ご飯にしましょっか」
「はい!」
そう言って、館内を出たのは、お昼時をすこしすぎた頃だった。
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