第4話

 「びっくりしちゃったわ。だって、ねえ、そういうことよね。香織が紹介した子が櫻井くんってことは……」


「あの…… ええ、まあ。その認識であってます……」


 やばい帰りたい。

 どんな羞恥プレイだ。職場の元人妻に童貞だけど官能小説を書いているが、女の人を知らなすぎてデートの練習をしに来たなんて知られてるのは。


「そ…… その一応確認なんだけれどね……?」


「は、はい?」


「セ…… セックスとかは、わたしできないわよ……?」


「…… っげほっ! げほっ!げほっ!」


「だ、大丈夫 櫻井くん?!」


「だ、大丈夫…… げほっ、です。辺なところにコーヒーが入っただけなので」


 いきなりびっくりした!

 百合子さんの口からセックスなんて言葉が出てくるから!そこはもっと婉曲的に表現してくれていいのに!

 咳が落ち着いたので、改めて百合子さんを見るとどうやら答えを待っているようだった。


「あ…… あの、俺もそんなつもりでは来てないので、大丈夫ですよ。心配しないでください」


 ほっと息をついて、


「よかったあ。香織には『若い子なんでしょ。わたしなんかじゃ練習にならないでしょ』って言ったら、『年上好きだから大丈夫よ。それにあんた最近やってないんだからちょうどいいじゃない』なんて言っちゃって」


 さ、最近やってないって?!

 俺はまともに百合子さんの顔を見ることができず、ただひたすら床のシミを凝視していた。

 百合子さんも自分の発言に気が付いたのか、


「あ、いやっ! ごめんね櫻井くん。変な話しちゃって……」


 あはは、と照れ隠しのように笑う声が聞こえた。


「い、いや全然。気にしないでください。大丈夫です」


 全然だいじょうぶじゃねえ!

 静まれ、俺!

 床を見つめる俺の視界の下の方で、ヤツがむくむくとうごめいているのが見える。

 だ、ダメだ! 想像しちゃダメだ!


『櫻井くん…… わたし、全然してないの……。だから、寂しくって寂しくって……。慰めて…… くれるかしら?』


 ダメだああああああ!


「そ、そろそろ出ようか。気分転換に外の空気でも吸いましょ」


「は?」


 コーヒーの最後の一口をすすり、ハンドバッグを手に取って立ちあがろうとする百合子さんに俺はそう答えた。


「あれ、まだダメだったかしら……?」


「あ、いやっ! ダメというか…… 今はちょーっと難しいと言いますか……」


 無理無理無理。

 無理すぎる。

 こんな状態で勇ましく立ち上がるなんて、そんなことをしたら俺はもう職場に戻れない!


『最低ね櫻井くん。セックスはなしって言ったのに、そんな想像するなんて』


 って絶対思われる。あ、冷たい百合子さんに罵られるのを想像したら余計にっ……!

 ばあちゃんの裸…… ばあちゃんの裸……


「大丈夫? お腹でも痛い?」


「へ?」


 百合子さんが俺の顔を覗き込むように前屈みになっていた。

 驚いて、俺は両手を後ろについて後退りするような格好になってしまう。

 その近さに恥ずかしくて視線を下に逸らすと、ブラウスの緩んだ首元から、その中の紫色のブラジャーに包まれた、白く柔らかそうな二つの巨大なマシュマロが……。

 これはやばいっ!

 つい、視線を自分のデンジャラスゾーンに向けてしまう。

 すると、百合子さんも……


「!」


「こ、これはちがくって!!!」


 ダメだおわった……




「き、気にしないでいいわよ? わたしは大丈夫だから」


 喫茶店を出て、駅を出て、大きな公園のある方へと二人で並んで歩きながら、百合子さんは必死のフォローをしてくれた。


「……ぐすん。俺はもうダメです…… こんな、百合子さんの顔を見れません」


「お、男の子なんだから自然なことよ! ほ、ほら、うちの息子もまだ小さいけど、そういうことに興味持つ年頃になったらどうしようかなあなんて、あはは」


 百合子さんの優しさが心に突き刺さる!

 しかし、それから、少ししっとりとしたトーンで、


「でも、ほんとうに。ほら、わたし離婚したでしょ。だから、今はまだ何も気にしてないけど、これから先、女ひとりで男の子を育てることなんてできるのかなって不安になることがあるの…… そういうこともよくわからないから、そういうときどう接すればいいかわからないし……」


 多分、百合子さんは、俺の恥ずかしさを慰めるために、自分の心のうちを曝け出してくれたのだろう。

 もちろん、それが彼女の悩みのすべてではないはずだが、そんな彼女の優しさに俺は答えるべきだろう。

 いつまでも、童貞官能小説家の勇ましいテント張りを見られたくらいでいじけていてはいけない!


「百合子さんなら大丈夫ですよ。今だって俺のこと上手く慰められたじゃないですか」


 いや、慰めるって変な意味じゃなくてね!


「そうかしら? だといいのだけれど」


「大丈夫です。絶対に」


 根拠のない確信、というものがどれだけ彼女にとって意味のある言葉になるのかはわからないが、俺はそう思った。


「なら、困ったら櫻井くんに頼むわね」


「え?」


「だって、わたしわからないもの。男の子のそういう悩みとか」


「い、いや、男の悩みなんてそんな! なんもないですよほんとに!」


「うそ。じゃあさっきのはなんだったのよ」


 ぐぬっ…… 確かに……


「もしも、あの時の櫻井くんがわたしの息子だったら、わたしは気が付かないでその…… 恥ずかしい思いをさせてしまったわけでしょ。親子じゃないわたしにもあの反応なのだから、もしお母さんにそんなところを見られたらきっと…… だからね」


「あーでも」


「でも?」


「俺の経験ですけど、母親とか家族と一緒にいる時は、不思議とそういうことになったことないですね」


「そ、そうなの?」


 「はい。これはまた別の話ですけど、たとえば温泉とか入るじゃないですか。もちろんみんな裸ですけど、そういう大変なことになってる人は見たことないですね。なんていうか、やっぱり本能的にここはダメ! ってのが身体に染み付いてるんでしょうね」


「そ、そういうものなのね」


「たぶん。わからないですけどね……」


「その……」


「どうかしました?」


 百合子さんはすごく聞きづらそうなことを尋ねるように、


「さ…… 櫻井くんの話の通りだとすると、さっきのは君的にここはだめ、って判断じゃなかったってことでいいのかしら?」


 墓穴っ!


 「ちがっ!」


「ふふ。冗談よ。元気が出たみたいでよかった」


 そう言って笑う百合子さんはすごく綺麗だった。


「あ、やっと顔、見てくれた」


 胸がキュッとなる。

 なんだこれ……

 下半身に血が巡っていく、あの感覚とは全然違う……

 なんだか不思議と、全身が暖かくなる。

 女性を知るってこういうことなんだろうか……


 俺は、気を紛らわすように、


「そ、それでどこ行きましょうか? 百合子さんはどこか行きたいところありますか?」


「え? 櫻井くんが考えてくれてるんじゃないの?」


「え?」


「だって、香織が……」


 百合子さんはすぐにスマホを取り出して電話をかける。


「ちょっと香織っ!」


 どうやら、今になってようやく電話に出たようだ。

 なんて、都合のいい!


「あなたには色々言いたいことがあるけれど…… え、ばかっ! 何言ってるの! そんなわけないでしょ!だから、ちがうってば! ねえ、あ…… ちょっと!………… き、切れたわ」


 どんな会話してたんだよ!

 めっちゃ気になる!


「あの、わたしは香織に、デートプランは相手の男の子が考えてきてくれるって言われて…… だから……」


「あの人は……」


 俺は頭を抱えるが、


「いちおう…… 俺に考えがあるんですけど…… その…… 百合子さんが楽しいかどうかはわからないといいますか…… デートスポットなのかって言われるとわからないというか」


 と、しどろもどろ自信なく言う。

 デートプランなどというものをデートしたことがない俺が考えられるわけがないので、俺がときおりの外出で出かける場所の中で最もデートにふさわしそうな場所をチョイスしただけなのだが。


「行きましょそこに。せっかくなんだから、今日は二人で目一杯楽しみましょ」


 そういう百合子さんに勇気づけられて、俺は人生初めてのデートを始めた。

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