第二章 司馬懿の性質
『晉書』宣帝紀からは、司馬懿の性質を表す文が幾つか見られる。
この章では、それらについてを項目別に取り上げる。
第一節 自分を偽る
第一項 曹操に召し出された時
建安六年(二〇一)、司馬懿は郡の上計の掾になった。一方、曹操は司空になり、司馬懿のことを聞く。(『三国志』によると、曹操に司馬懿を推挙したのは荀だった。)そこで早速曹操は司馬懿を招いたが、司馬懿は誘いを断わろうとする。その時に使った手段が所謂「仮病」であった。
辭以風痺、不能起居。
辞するに風痺あり、起居する能わざるを以てす。
(風痺で起きることも出来ませんと言って辞退した)
曹操の使者に対して、「風痺(中風)の為に、起きることも出来ません」と言って断わったのである。しかし、曹操は司馬懿の言葉だけでは納得がいかなかった。『三国志』の魏書には
太祖(曹操)は若いころ、鷹を飛ばし犬を走らせて狩をすることが好きで、程度のない遊蕩ぶりだった。彼の叔父はたびたびそのことを曹嵩(曹操の父)に語った。太祖はそれを厄介に思っていた。その後、道で叔父に出あった。そこでわざと顔面をくずし、口をねじまげて見せた。叔父は不審に思ってそのわけを訊ねると、太祖は、「突然、ひどい麻痺症にかかりまして」といった。叔父はそのことを曹嵩に知らせた。曹嵩は仰天して太祖を呼びつけたが、太祖の口の様子はもとのとおりだった。曹嵩は訊ねた、「叔父さんは、おまえが麻痺症にかかったといっていたが、もうなおったのかね。」太祖「全然麻痺症になんかかかっておりませんよ。ただ〔私が〕叔父さんのお気にめさないものですから、でまかせをいわれただけです。」曹嵩は疑念を抱いた。以後、叔父が何か知らせて来ても、曹嵩はまるっきり信用しなかった。太祖はその結果いよいよ思いどおりにふるまうことができた。
とある。つまり曹操も仮病を使って自分の思う通りにしたことがあるのだ。そこで曹操は司馬懿のことも疑い、夜に刺客を放って司馬懿の事を刺させてみた。しかし、結局その時は司馬懿を諦めることとなる。何故なら、
魏武使人夜往密刺之、帝堅臥不動。
魏武、人をして夜往きて密かにこれを刺さしむるに、帝 堅臥して動かず。
(曹操は武人を刺客として夜に往かせて密かに司馬懿を刺させると、司馬懿はじっと臥していて動かなかった)
本当に病気になっていた訳では無いのに、司馬懿は刺されてもじっと臥していて動かなかった。こうした徹底した演技でもって、あくまで自分は風痺であると見せかけたのである。
第二項 孟達への手紙
建安二四年(二一九)に蜀から魏に投降してきた孟達は、曹丕が崩ずると呉や蜀と通じて中原を狙い始めた。そんな折、諸葛亮は孟達の旗揚げを促そうと考える。そして孟達の計画を、孟達と仲の悪い申儀に漏らしたのだ。
事が露顕してしまっては兵を挙げねばならない。しかしその時、孟達の元に司馬懿から親書が送られてきた。
「將軍昔棄劉備、託身國家、國家委將軍、以疆[土易]之任、任將軍、以圖蜀之事、可謂心貫白日。蜀人愚智、莫不切齒於將軍。諸葛亮欲相破、惟苦無路耳。模之所言、非小事也、亮豈輕之而令宣露、此殆易知耳。」
「將軍昔劉備を棄て、身を國家に託す。國家は將軍に委ぬるに、疆[土易]の任を以てし、將軍に任ずるに、蜀を圖るの事を以てす。心白日を貫くと謂うべし。蜀人は愚も智も、將軍に切齒せざる莫し。諸葛亮相破らんと欲するも、惟だ路無きを苦む耳。模の言所、小事にあらざるなり、亮豈に之を輕んじて宣露せしめんや、此れ殆んど知り易き耳。」
(将軍は昔劉備を捨てて、その身を我が国家に託されました。我が国が将軍に、疆[土易]の任を委ね、蜀の事も任せていますのは、我々の心が将軍に対して曇り無いからです。蜀の人は愚者も智者も、将軍に対して歯を食いしばって悔しがっております。諸葛亮は攻めようとしても、その術が無いから苦しんでいるだけです。郭模の言う事は、小さな事ではありません。それなのに諸葛亮が簡単に漏らすものでしょうか、すぐに判る事です)
孟達はこれを受け取ると大変喜び、一度決めた筈の挙兵も躊躇してしまうこととなる。
この孟達への手紙で司馬懿は「國家委將軍、以疆[土易]之任、任將軍、以圖蜀之事、可謂心貫白日。」と述べているが、そもそも司馬懿は最初から孟達のことを「言行が人に気に入られる様にへつらっている者であるから信用ならない」と疑っていた。つまりこれは、孟達を油断させる為に送った手紙だったのである。こうした一方で司馬懿は隠密裏に討伐軍を進発させ、やがては孟達を討ち取ることに成功したのであった。
第三項 諸葛亮との戦い
青龍二年(二三四)、諸葛亮が十万の兵を率いて五丈原に出撃してきた。それに対して魏軍は「諸葛亮は遠征軍なので、急戦こそが敵に有利である」と、自重するようにしていた。その為、諸葛亮がしばしば戦を挑んでも司馬懿は出て行かない。そこで諸葛亮は直接戦いを挑むのでは無く、別の手段を用いてきた。
亮數挑戰、帝不出、因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒、表請決戰、天子不許、乃遣骨[魚更]臣衛尉辛[田比]杖節爲軍師以制之。後亮復來挑戰、帝將出兵以應之、[田比]杖節立軍門、帝乃止。
亮數ば戰挑、帝出でず。因りて帝に巾幗婦人の飾を遺る。帝怒りて、表して戰を決せんと請ふも、天子許さず、乃ち骨[魚更]の臣衛尉辛[田比]を遣はし、節に杖て軍師と爲して以て之を制せしむ。後亮復來りて戰を挑む、帝兵を出して以て之に應ぜんとす、[田比]節を杖て軍門に立つ、帝乃ち止む。
(諸葛亮がしばしば戦いを挑んでも、司馬懿は出て行かない。それで司馬懿に婦人の髪飾りや装飾品を送りつけた。司馬懿は怒って、決戦したいと上奏したが、曹叡は許さず、剛正な性格の臣である衛尉の辛[田比]を遣わして、勅命を与えて軍師とさせて司馬懿を制させた。その後諸葛亮がまたも戦を挑んできたので、司馬懿は兵を出して応じようとしたが、辛[田比]が軍門に立って、勅命でもって司馬懿を止めた)
婦人の髪飾りや装飾品を送り付け、少しも戦いに応じない司馬懿を「女のようである」と挑発したのである。こうまでされては司馬懿としても黙っている訳にはいかない。司馬懿は怒り、決戦したいと曹叡に上奏した。しかし、曹叡はそのことを許さない。司馬懿を止めるために、わざわざ辛[田比]が派遣される始末。そうまでされてしまうと、流石の司馬懿も諦めざるを得ない。こうして、結局まともに戦うことは無かった。
しかし、そもそも司馬懿は本当に怒り、戦うという意志があったのであろうか。そのことについて、諸葛亮は次のように語っている。
「彼本無戰心、所以固請者、以示武于其衆耳。將在軍、君命有所不受、苟能制吾、豈千里而請戰邪。」
「彼は本戰ふ心無し、固く請ふ所以の者は、武を以て其の衆に示す耳。將に軍に在りては、君命も受けざる所有り、苟しくも能く吾を制せは、豈に千里にして戰を請はんや。」
(彼は元々戦う気など無いのです。強く請う理由は、部下に自分の武を示したかった為。将が軍にいる時は、君命も受けないという言葉があります。仮に私を制する事が出来ると思ったのならば、どうして非常に遠い都にまで戦いたいと請う事がありましょうか)
この『君命有所不受』というのは『孫子』の九変篇にも見られるが、諸葛亮は「もし本当に自分を制することが出来るのであれば、わざわざ遠い都にいる曹叡に伺いをたてるなどという悠長なことはせず、挑んでくるであろう」と話しており、実際に司馬懿も弟の司馬孚に、手紙で
「亮志大而不見機、多謀而少決、好兵而無權、雖提卒十萬、巳墮吾畫中、破之必矣。」
「亮 志大なれども而も機を見ず、謀多きも決少し、兵を好むも權無し、提卒十萬と雖も、巳に吾が畫中に墮つ、之を破すこと必せり。」
(諸葛亮は志は大きいが機を見るという事が出来ず、知謀は多いが決断力が少なく、兵法を好むが臨機応変の処置が出来ない。率いている兵は十万といっても、既に我が術中に落ちている。これを撃破する事は必定だ)
と述べている。つまりこれだけのことを言ってのけるだけの勝算が司馬懿にはあったのだ。それが、「何があっても打って出ず、持久戦に持ち込む」というものであった。そのために、戦う素振りを見せて止めさせる、という芝居を打って部下を落ち着かせたのだ。「敵を欺くにはまず味方から」というが、司馬懿はこの様に、時には味方をも欺いて計画を遂行する人物であった。
第四項 公孫淵との戦い
遼東の太守である公孫淵が反乱すると、司馬懿は討伐に向かうこととなった。景初二年(二三八)に司馬懿は都を進発し、遼水を渡河して襄平で敵を包囲したのだが、長雨が続いていた。そのせいで周囲に水が溜まってきたので、皆は移動を願い出た。しかし司馬懿は陣営を動かさない。一方、敵の方では長雨という天の味方をつけて安心しているのか、薪を切ったり家畜の世話をしたりしている。そこで諸将はそれらを奪いたいと訴えたが、司馬懿はその言葉も許さなかった。当然そのことに部下は不満を持ち、陳珪は「あなたのお考えがよく分かりません」と司馬懿に述べた。その時の返答が、
夫兵者詭道、善因事變。賊憑衆恃雨、故雖飢困、未肯束手、當示無能以安之。取小利以驚之。非計也。
夫兵者詭道、善く事に因變す。賊衆を憑雨を恃、故に飢困すと雖、未肯手を束ず、無能を示して以之を安す當。小利を取以之を驚すは。計に非也。
(兵法というものは人を騙すものであって、状況次第で変わっていくものなのだ。敵は大軍であるし雨も味方していると思っているから、飢えて困った事態になるというのに降参しようとしていない。ここはこちらの無能を示して奴等を安心させておくべきなのだ。小さな利益を取る為に敵を驚かすなど、策とは呼べぬ)
である。敵が食糧不足であったとしても、こちらが不利だと思わせていれば逃走されるのを防ぐことが出来る。小さな利益(薪や家畜)のために大きな利益(敵軍)を脅かすことの無い様にせよ、こちらが無能であると油断させることこそが「計」なのだ。こういう考えに基づいての、司馬懿の行動であった。
第五項 威徳が増した時
公孫淵を討伐した後も、人民の負担を除き、費用節減や農業奨励をしたり、南征して呉を討伐したりと、司馬懿の功績や徳は日増しに盛んになっていった。しかし司馬懿は奢るということをしない。自分を抑え、一歩退いて人に譲ったり、敬い慎む様子は益々多くなり、また同じ村里出身で年配の人である太常の常林には、彼を見る度毎に拝礼していた。そして、常に子弟に
「盛滿者、道家之所忌、四時猶有推移、吾何徳以堪之。損之又損之、庶可以免乎。」
「盛滿者、道家の忌む所、四時すら猶ほ推移有り、吾何ぞ徳の以て之に堪へん。之を損して又之を損する、以て免る可きを庶はんか。」
(盛満は道家の忌む所、四季すら推移があるというのに、私の徳がどうしてこれに堪えられようか。抑えた上にまた抑える、それでこそ害を受けないで済むというものだ)
と戒めて言っていた。
四季を移り行く物の喩としつつ、徳もやがては無くなるであろうから、今のうちから慎みを持って過ごしておく。そうすれば害も受けないという、これまでの功績のことを鑑みると随分控えめな言葉であるが、これが司馬懿のスタイルであった。かつて曹操に『非人臣』と言われて警戒されていたことのある司馬懿だったが、そんな経験があったからこそ身に付いた生き方であるのかもしれない。
第六項 曹爽を油断させる
景初三年(二三九)に曹叡が死ぬと、僅か八歳の幼帝、曹芳が即位した。曹叡の遺言によって、司馬懿は曹爽と共に曹芳を輔佐していくことになった。しかし、二人の間はいつまでも良好であった訳では無く、『三国志』に、
最初、曹爽は司馬宣王が年齢功績すべて上だったことから、つねに彼に父のように仕え、専断で事を行おうとしなかった。しかし、何晏らを登用するようになってからは、彼らがみな曹爽をもち上げ、重い権力を他人にゆだねるのはよろしくないと進言したので、何晏・鄧[風昜]・丁謐を尚書に任じ、何晏に官吏の登用を司らせ、畢軌を司隷校尉に、李勝を河南尹にとりたて、いろいろの政治的案件が司馬宣王のもとを経由することは、まれになった。
とある様に、こうして最終的には二人の間に深い溝が出来てしまうこととなった。やがて司馬懿は、病気であると偽って政治に関わらなくなる。曹操に召し出された時と同じく、またしても司馬懿の仮病であった。
曹爽達は司馬懿の病が篤いと思って帝位を狙い、クーデターを起こす期日まで定める。司馬懿の方でも密かにその備えをしたが、曹爽側でも司馬懿を警戒し続けている者が何人かいた。そんな折、たまたま曹爽の仲間の一人で李勝という人物が荊州に行くこととなり、挨拶を口実に司馬懿の元へ探りを入れに来た。ここで司馬懿は、この様な演技をする。
帝詐疾篤、使兩婢侍持衣、衣落、指口言渇、婢進粥、帝不持杯飲、粥皆流出霑胸。勝曰、「衆情謂明公舊風發動、何意尊體乃爾。」帝使聲氣纔屬説、「年老枕疾、死在旦夕。君當屈并州、并州近胡、善爲之備。恐不復相見、以子師、昭兄弟爲託」。勝曰「當還忝本州、非并州。」帝乃錯亂其辭曰、「君方到并州。」勝復曰「當忝荊州。」帝曰、「年老意荒、不解君言。今還爲本州、盛徳壯烈、好建功勳。」
帝疾篤と詐、兩婢をし侍て衣を持使、衣落、口を指して渇言、婢粥を進、帝杯を持不飲、粥皆流出胸を霑す。勝曰、「衆情謂明公舊風發動すと、何意はん尊體乃爾んとは」帝聲氣をして纔に屬使説らく、「年老疾に枕、死旦夕に在。君當に并州に屈、并州胡に近、善之備爲。恐は復相見不、子師、昭兄弟を以託するを爲す」。勝曰、「當に還本州を忝す、并州に非。」帝乃其辭を錯亂して曰、「君方に并州に到。」勝復曰「當に荊州を忝す。」帝曰、「年老意荒、君の言を解不。今還本州を爲、盛徳壯烈、好功勳を建よ。」
(司馬懿は重病だと偽って、二人の侍女を側において衣服を掛けさせながらもそれを落とした。また、口を指差して喉が渇いたと言って侍女に粥を持ってこさせながらも、司馬懿は杯を持たずに飲み、粥を皆流れ出さして胸に零す。
李勝は、「貴方が持病の風痺を発病したと人々は言っておりましたが、まさかそのお体がこのようにまで悪いとは」と言う。
司馬懿が口から出る息を声にして僅かに話すには、
「年老いて病に臥せているこの身には、死も差し迫っている。そなたは并州に行かれるそうだが、并州は胡に近い、備えは怠らぬように。恐らくは再び会う事はないであろうが、子の師と昭の兄弟を宜しく頼みましたぞ」と説く。
李勝は「還るのは本州にです、并州ではありません」と言うが、司馬懿はその言葉を取り違えて、
「そなたは并州に行くのですな」と言う。李勝はまた「荊州に行くのです」
と言い、司馬懿は、
「年老いて意味がはっきりしなくなり、そなたの言葉を理解できなかった。今本州に行かれるとは、徳が優れて意気盛んなのですな。よく功勳を建てますように」と言った)
この演技では、一人で起きているのも難しいということ(使兩婢侍)、身なりも整えられない程であるということ(持衣、衣落)、話すことも満足に出来ないということ(指口言渇)、さして重くも無い物でも持つのが困難であるということ(帝不持杯飲)、まともに食べることもままならないということ(粥皆流出霑胸)、話すのもやっとであるということ(帝使聲氣纔屬説)、耳が悪くなっている、もしくは耄碌してきていること(年老意荒、不解君言)を態度で表わしている。そして司馬懿自身も「年老枕疾、死在旦夕」「恐不復相見」と、死期が差し迫っているということを述べた。
この時の司馬懿の年齢は七十歳であるので、李勝の言葉を聞き間違える等の耄碌振りにも不自然さは無い。しかも呼吸や仕草にも気を払っており、醜態まで晒している。その上、言葉の上では李勝のことを励まし、息子を宜しくと頼んだりもしているので、まさか李勝も自分を警戒している上での行動だとは見抜けなかったのである。
こうして李勝はこの絶妙な演技にすっかり騙され、曹爽に「司馬公尸居餘氣、形神已離、不足慮矣(司馬公は生ける屍になっており、肉体と精神とが既に離れておりますので、心配は無用でございます)」「太傅不可復濟、令人愴然(太傅は最早救うことも出来ません、痛ましいことです)」と報告。その結果、曹爽側では司馬懿に対する警戒をすっかり解いてしまうこととなった。
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