第二章 第二節 人や状況を読む
第一項 樊での戦いの前後
建安二四年(二一九)、蜀の将軍である関羽が樊にて曹仁を包囲した。この時、于禁達七つの軍が救援に向かったが、彼等は洪水の為に投降してしまった。すると胡脩と傅方も関羽に寝返ってしまい、樊は孤立する結果となった。
この胡脩と傅方の二人であるが、司馬懿は前もって
帝又言荊州刺史胡脩粗暴、南郷太守傅方驕奢、並不可居邊。
帝又言荊州の刺史胡脩粗暴に、南郷の太守傅方驕奢に、並に邊居べからず。
(司馬懿はまた、荊州の刺史である胡脩が粗暴で、南郷の太守の傅方は驕奢であるから、二人とも居させておくべきではないと言った)
と曹操に進言していた。司馬懿は二人の性質を見ぬき、前線に置いておくべきでは無いと判断していたのである。
また、樊の状況を知った曹操が、呉・蜀に近い許昌から河北に遷都しようと考えた時にも
帝諫曰、「禁等爲水所沒、非戰守之所失、於國家大計、未有所損、而便遷都、既示敵以弱、又淮ベン之人、大不安矣。孫權、劉備、外親内疏、羽之得意、權所不願也。可喩權所、令掎其後、則樊圍自解。」
帝諫曰く、「禁等水の爲沒せ所、戰守の失所に非ず、國家の大計に於、未だ損する所有らざるに、便都を遷、既に敵に示に弱を以す、又淮ベンの人、大に安せざらん。孫權、劉備、外親内疏し、羽の意を得は、權の願ざる所なり。權の所に喩して、其後に掎しめば、則樊の圍自解ん。」
(司馬懿は諌めて、「于禁達は水の為に投降したのであって、戦で過失があったからではありません。国家の大計において、まだ失敗している訳でも無いのに、都を遷すというのは、敵に弱みを見せるものであるし、また淮・ベンの人々を大きく不安にするものです。孫権と劉備は外側では親しいですが内側では疎んじているので、関羽が勝利を得たのは、孫権の望む所ではありません。孫権を諭して関羽の背後から足を引っ張らせれば、樊の囲みは自ずから解けるでしょう」と言った)
と孫権の内情を読んで進言している。そして実際、この後孫権は呂蒙を派遣して関羽を捕えさせた。
なお、この頃曹操は呉・蜀に近い荊州や潁川にいる者を移住させようとしたが、司馬懿はその時にも
「荊楚輕脱、易動難安。關羽新破、諸爲惡者、藏竄觀望。今徙其善者、既傷其意、將令去者不敢復還。」
「荊楚は輕脱、動し易く安し難し。關羽新に破れ、諸々の惡を爲す者、藏竄觀望す。今其の善者を徙して、既に其の意を傷、去者をして敢また還ざらしめんとす。」
(荊・楚の者は軽はずみなので、動かしやすいですが落ち着かせるのは難しいです。最近関羽が破れて、諸々の悪をなす者達は、隠れ逃れて様子を見ております。今善なる者を移動させてしまうと、その意を傷付けることになりますし、去る者は帰ってこなくなりますでしょう)
と荊州の者の心情を考えての提言をしている。
その後、曹操が死んで曹丕が後を継ぐと、たまたま孫権が軍を率いて西に向かった。朝議では孫権の進路にある樊と襄陽を放棄して、襄陽にいる曹仁も宛まで呼び戻そうとする。しかし司馬懿はそれに対して、
「孫權新破關羽、此其欲自結之時也、必不敢爲患。襄陽水陸之衝、禦寇要害、不可棄也。」
「孫權新に關羽を破、此其自結欲の時なり、必敢患を爲さず。襄陽は水陸の衝、禦寇の要害、棄べからず。」
(孫權は関羽を破ったばかりで、彼は我々と手を結びたい時なのです。だから敢えて攻撃してくるという事はありえません。襄陽は水陸の要衝であり、敵を防ぎ守る要害なのですから、放棄してはなりません)
と反対した。結局この意見は取り入れられず、曹仁は両方の城を焼き棄てたが、果たして孫権は攻めること無く行ってしまった。そこで曹丕は司馬懿の言う通りにせずに二城を放棄してしまったことを悔やんだ。
第二項 孟達について
蜀から降伏してきた孟達のことを手厚く遇している魏朝に対し、司馬懿は諌めた。
帝以達言行傾巧不可任、驟諫不見聽
帝達の言行傾巧任すべからざるを以て、驟々諫れども聽かれず
(司馬懿は孟達の言う事が人に気に入られる様にへつらうものであるから信用ならないと、諌めたが聞き入れられず)
しかし結局は聞き入れられず、孟達は優遇される。この時の司馬懿の憂慮が、太和元年(二二七)に現実のものとなった。孟達は密かに呉や蜀と通じ、やがては諸葛亮の情報操作で挙兵しようとしたのである。
そこで司馬懿は、孟達を信頼しているとの親書を送って引き止める一方で、討伐軍を興した。しかし諸将は、まず様子を見てから動くべきだと司馬懿を止める。それに対して司馬懿は、
「達無信義、此其相疑之時也、當及其未定、促決之。」
「達信義無し、此れ其の相疑の時なり、當に其の未だ定まらざるに及び、促に之を決べし。」
(孟達は信義が無く、今はどちらも疑っている時だ。まだ決めかねている今の内に、速やかに決するべきだろう)
と、孟達の優柔不断な所を指摘し、だからこそ即断して進発するべきであると反論した。
さて一方の孟達はというと、諸葛亮に手紙で
「宛去洛八百里、去吾一千二百里、聞吾舉事、當表上天子、比相反覆、一月間也、則吾城已固、諸軍足[辛力辛]。則吾所在深險、司馬公必不自來、諸將來、吾無患矣。」
「宛は洛を去ること八百里、吾を去ること一千二百里、吾の事を舉ぐるを聞かば、當に表して天子に上るべし、相反覆する比、一月の間なり。則ち吾が城已に固ければ、諸軍[辛力辛]ずるに足る。則ち吾の所在深險、司馬公必ず自ら來らず。諸將の來るは、吾患ふ無し。」
(宛から洛陽までは八百里あり、私の所までは一千二百里あります。司馬公が私の挙兵を聞いて、天子に上奏文を送っても、それが往復するのに一月の間があります。その間に私どもの城は防備を固められますし、諸軍は言うまでも無いでしょう。そして私のいる所は深く険しいので、司馬公が自ら来ることはありませんし、諸将が来ても、私には心配が無いのです)
と述べている。
この手紙からは、往復に一ヶ月もかかるから即行動を起こさなくても何とかなるであろうという、孟達の甘い考えが読み取れる。悠長に事を構えている孟達と、速やかに進軍した司馬懿。司馬懿は来ないであろうという孟達の読みと、最初から孟達を疑っていた司馬懿。二人の差は歴然であった。
結局司馬懿は八日で上庸へと至り、孟達は
「吾舉事八日、而兵至城下、何其神速也。」
「吾事舉八日、兵城下に至、何其れ神速なる也。」
(私が事を挙げて八日で、司馬公の兵が城下に至ってしまいました。何と人間わざとは思えない程の速さでしょうか)
との手紙を諸葛亮に送った。そして城を八方から攻めること十六日、合計二十四日で司馬懿は相手を降参させた。
第三項 諸葛亮について
太和五年(二三一)に諸葛亮が侵攻してきた。それを防ぎ、凱旋した司馬懿に杜襲と薛悌は、「来年の麦の実る頃になれば諸葛亮は必ず攻めてくるから、この冬の内に隴西へ穀物を運ぶようにしましょう」と進言した。しかし司馬懿はこれまでの諸葛亮の行動を思い起こし、「今まで三度も城攻めに失敗しているから次は野戦を求めてくるであろう」ということを割り出すと共に、そこから諸葛亮の進行地点は隴西では無く隴東と予測した。また諸葛亮が今まで兵糧不足だったことも推し量り、三年は動きが取れないであろうとも言っている。そしてその読みに従って、成国渠を掘削し、臨晋陂を築き、農地も増やして国力を充実させた。諸葛亮は予測通り、三年間は侵攻してこなかった。
青龍二年(二三四)になると諸葛亮は、十万の兵を率いて出撃してきた。やがて蜀軍は五丈原で布陣したが、司馬懿はいくら挑まれても戦いには応じない。何故なら、諸葛亮の使者から重要な情報を得ることが出来ていたからだ。それは他でも無い、諸葛亮のこと。司馬懿は使者に対して諸葛亮の日常についてを訊ねたのだった。
先是、亮使至、帝問曰、「諸葛公起居何如、食可幾米。」對曰「三四升。」次問政事、曰「二十罰已上、皆自省覽。」帝既而告人曰、「諸葛孔明其能久乎。」
是より先、亮の使至る。帝問ひて曰く、「諸葛公の起居は何如、食は幾米可りぞ。」對へて曰く「三四升。」次に政事を問ふ、曰く「二十の罰已上、皆自ら省覽す。」帝既にして人に告げて曰く「諸葛孔明 其れ能く久しからんや。」
(この事があるより前の話であるが、諸葛亮の使者がやってきた時があった。使者に司馬懿は、
「諸葛公の日常の生活はどうなのですかな、食事はどれくらい召し上がる」
と問い、それには「一日に三、四升です」と答えられた。次に政務について問うと、「二十以上の罰については、全て御自分でお調べになります」と言う。
司馬懿はその時既に
「諸葛孔明はもう長くない」
と告げていた)
質問が戦のことでは無かった為に油断したのか、使者は司馬懿の問いに対して正直に答えた。あるいは、司馬懿は意図的に戦いのことを口に出さない様にして使者の警戒心を解かせたのかもしれない。それはともかく司馬懿は使者との会話から、諸葛亮の食事が少ないことと、政務が多忙であることを突き止めた。しかも鞭打ち二十以上の刑罰については全て自分で調べるという情報は、多忙であっても細事にまで気を配るという諸葛亮の性格を物語っている。どんな時でも手も抜かずに仕事熱心なのは素晴らしいことだが、それでは体調が悪くなる一方に違いない。放っておけば遠征軍である蜀軍の兵糧が尽きるばかりか、諸葛亮までいなくなるとなると、持久戦に持ち込まない手は無いのだった。
そして対陣して百余日で、予想通り諸葛亮は病没してしまった。総大将を失った蜀軍の諸将は陣営に火をかけて撤退し、司馬懿はそれを追撃する際も窮した敵を追い込めばどうなるかを考えて、深追いをすることはしなかった。
数日後、蜀軍の陣営に行った司馬懿は諸葛亮の死を確信した。しかし辛田比には諸葛亮が死んだとは信じられない。そこで司馬懿は、軍に携わる者が重んずる物が全て棄ててあることから、これは五臓を棄てた様なものであるから生きている筈が無いということを言った。そして、そんな陣営跡でも諸葛亮が「天下の奇才である」ということを掴んだのであった。
第四項 公孫淵を討つ際
遼東太守の公孫淵が魏に叛いた時、曹叡は司馬懿を都に召し出した。そして司馬懿にどのような策があるのかを訊ねると、
「棄城預走、上計也。據遼水以距大軍、次計也。坐守襄平、此成擒耳。」
「城を棄て預め走るは、上計也。遼水に據て以大軍を距ぐは、次計也。坐して襄平を守るは、此れ擒と成さん耳。」
(城を捨てて動いておく事、これが上策です。遼水を拠り所として大軍を防ぐ、これが次策。襄平に留まって守る様でしたら、我等に捕らわれるのみです)
という三つを述べた。それに対して曹叡が、公孫淵ならば三つの内のどの策に出るかを問うと、司馬懿はこう答えた。
「惟明者能深度彼己、豫有所棄、此非其所及也。今懸軍遠征、將謂不能持久、必先距遼水而後守、此中下計也。」
「惟明者は能く深く彼己を度り、豫して棄つる所有り、此れ其の及ぶ所に非ざる也。今 懸軍 遠征す、將に謂久しきを持する能はざらんとす、必ず先づ遼水を距ぎて而る後守る、此れ中下の計也。」
(物を見通す力のある者でしたら深く相手と己とを推し量り、城を捨てる事もありましょうが、彼はそれに及ぶ者ではありません。遠征している将軍は、持久戦に持ち込むのは無理だと思い、まずは遼水で防いだ後に守ろうとするでしょう。これは中、下の策です)
上策は取らないという、公孫淵は「明者」では無いという考えに基づいての読みだった。そして司馬懿がそのことを計算にいれて割り出した、出撃から帰還までの時間が
「往百日、還百日、攻百日、以六十日、爲休息、一年足矣。」
「往百日、還百日、攻百日、六十日を以て、休息を爲さば、一年にして足れり。」
(行きに百日、帰りに百日、攻めるに百日。それに休憩に六十日をあてるとして、一年で足ります)
である。これだけを聞くと机上の空論で、実際には違ってくるものだと思えるが、本当に公孫淵は司馬懿の予測した通りに遼水で防衛線を築くという中策を用いてきた。そこで司馬懿は敵の南に兵を集中させ、その隙を突いて襄平へ向かった。何故なら相手が固く守って、魏軍を疲れさせようとしていることを見抜いたからだった。そして遼水に兵を集中させる余りに敵の本拠地である襄平は空になっていると判断し、今すぐにそこを攻撃することによって相手を懼れさせようとした。こうして心に懼れを抱いて戦いを挑むようにさせれば、必ず破ることが出来ると踏んだからである。
またも司馬懿の計算通りに事は運び、敵兵は背後に回られたと知ると魏軍に向かってきた。ここで司馬懿は三戦三勝し、敵は撤退して襄平に立てこもる。この結果、最初に司馬懿が曹叡に話した下策を用いたこととなり、公孫淵に対しての読みは完全に的中することとなった。
その後、魏軍は運悪く長雨に遭った。平地にいたので水が数尺も溜まっていき、軍の者は皆恐れて陣地の移動を求めた。しかし司馬懿はそれを許さなかったので、敵方はこの状況を頼りとして薪を切り家畜の世話をした。動けない上に敵のそんな様子を見せられた者達は、口々に「略奪しましょう」と申し出る。これも許さなかった司馬懿に、陳珪は
「昔攻上庸、八部並進、晝夜不息、故能一旬之半、拔堅城、斬孟達。今者遠來、而更安緩、愚竊惑焉。」
「昔上庸を攻め、八部並び進み、晝夜息はず、故に能く一旬の半にして、堅城を拔き、孟達を斬る。今者遠來、而更に安緩、愚竊かに惑ふ焉。」
(昔上庸を攻めた時は、全部隊を昼も夜も休み無く進ませ、それ故に十日間の半分で、堅城を抜き、孟達を斬りました。それなのに今回は遠くから来た上に穏やかに構えて、そのお考えがよく判りません)
と言った。以前は神速と言われる程の速さでもって成功しているのだから、今度も同じく速攻でいくべきだという意見である。しかし司馬懿はそんな風には考えていなかった。
そしてこの様に返答している。
「孟達衆少、而食支一年、將士四倍于達、而糧不淹月、以一月圖一年、安可不速。以四撃一、正令半解、猶當爲之。是以不計死傷、與糧競也。今賊衆我寡、賊飢我飽、水雨乃爾、功力不設、雖當促之、亦何所爲。自發京師、不憂賊攻、但恐賊走。今賊糧垂盡、而圍落未合、掠其牛馬、抄其樵采、此故驅之走也。夫兵者詭道、善因事變。賊憑衆恃雨、故雖飢困、未肯束手、當示無能以安之。取小利以驚之。非計也。」
「孟達衆少、而食一年を支、將士倍にして達に四、而糧月を淹不、一月を以て一年を圖、安そ速不可。四を以て一を撃、正に半解令、猶之爲當。是以死傷を計不、糧與競也。今賊衆我寡、賊飢我飽、水雨乃爾、功力設不、之促當雖、亦何爲所そ。京師發せし自、賊の攻るを憂不、但賊の走るを恐る。今賊糧盡るに垂として、而圍落未合ず、其の牛馬を掠め、其の樵采を抄るは、此故さらに之を驅て走しむるに也。夫兵者詭道、善く事に因變す。賊衆を憑雨を恃、故に飢困すと雖、未肯手を束ず、無能を示して以之を安す當。小利を取以之驚すは。計に非也。」
(孟達は兵は少なかったが、一年分の食料を蓄えており、こちらは孟達の四倍の兵士がいたが、食料は一月分にも満たなかった。一月をもって一年を相手にするには、速やかに片付ける他は無い。その上、四をもって一を撃つのだから、その半数を失うとしても行うべきなのだ。これは死傷者云々では無く、食料との戦いだった。しかし今度は敵の兵は多いが我が軍は少なく、食料面で見ても敵は不足しているが我が軍は豊富にある。そしてこの雨、手柄を立てるにしてもどうにもならず、また動くといっても一体どうするつもりなのだ。都を出てから、私は敵が攻めてくる事を憂える事は無かったが、ただ敵が逃走する事だけを心配してきた。今、あちらは食料が尽きようとしているが、こちらもまだ包囲が完成した訳では無い。こんな時に奴等の牛馬や薪を奪い取るというのは、みすみす敵を逃げさせる事になるのだぞ。兵法というものは人を騙すものであって、状況次第で変わっていくものなのだ。敵は大軍であるし雨も味方していると思っているから、飢えて困った事態になるというのに降参しようとしていない。ここはこちらの無能を示して奴等を安心させておくべきなのだ。小さな利益を取る為に敵を驚かすなど、策とは呼べぬ)
この言葉から司馬懿は、軍勢や食料についてを自軍と敵軍とで比較し、天候も考慮に入れているということが窺える。以前に勝ったといってもそのパターンに固執したりせず、毎回敵と味方との差や状況を考えての策を打ち出すというのが司馬懿の戦における姿勢であった。
第五項 呉について
正始四年(二四三)、呉が諸葛恪を皖に進出させたので、司馬懿は諸軍を率いて討伐に向かった。しかし、最初に司馬懿が出撃を願い出た時には、会議に出ている者に反対された。その意見とは
賊據堅城、積穀、欲引致官兵。今懸軍遠攻、其救必至、進退不易、未見其便。
賊堅城、積穀に據、官兵を引致欲。今懸軍遠攻、其救必至は、進退易不、未だ其便を見ず。
(賊は堅固な城で、多くの兵糧を拠り所として、我が国の兵を誘い出そうとしている。今本国から遠く離れた敵地に軍を送って攻めさせても、呉が必ず救援を出すだろうから、進む事も退くことも容易では無くなる。この様に、まだその利点が見えない)
といったものであり、それに対して司馬懿は
「賊之所長者水也、今攻其城、以觀其變。若用其所長、棄城奔走、此爲廟勝也。若敢固守、湖水冬淺、船不得行、勢必棄水相救、由其所短、亦吾利也。」
「賊之長する所の者は水也、今其城を攻、以其變を觀。若其の長する所を用は、城を棄て奔走、此廟勝爲り也。若敢固守は、湖水冬淺、船行得不、勢必水を棄て相救し、其の短なる所に由は、亦吾利也。」
(呉の得意とするのは水戦である。今その城を攻めるのは、それをもって相手の出方を見るという事だ。もし向こうの得意とする水軍を用いようとすれば、城を棄てて奔走するであろうから、これでこちらの勝ちとなる。もし敢えて城を固守しようとすれば、湖水は冬には浅くなり、船で行くことは出来なくなるから、水軍を棄てて救援せざるを得なくなる。それは相手にとっての不得意な所であり、また我が方にとっては有利となる)
と反論。相手が堅固な城を構えていることは自軍にとって不利であると考えている者達と違い、司馬懿は城を逆手に取って出方を試そうとの考えだった。それは、今回の戦いの相手である呉が『水戦が得意であり、城攻めをされるのは不得意である』という見解に基づいたものであり、これによって敵が城を棄てて逃げ出せば戦わずに勝つことが出来るとの読みだった。しかも例え敵が城を諦めずに守りの態勢に出たとしても、今からならば舟が使い物にならなくなるという、季節まで計算に入れての策である。
こうして秋九月に進発した司馬懿の軍が舒まで来ると、果たして諸葛恪は備蓄していた物資を焼き払って城を棄て、逃走した。やはり、敵を放置せずに攻めることが正しかったのである。
第六項 曹爽について
嘉平元年(二四九)正月甲午(六日)、曹芳は曹叡が葬られている高平陵に参拝し、曹爽兄弟も皆それに付いていった。司馬懿はこの機を逃さずに永寧皇太后の元へ行き、曹爽兄弟を廃するようにと奏上。それと同時に中護軍である司馬師を司馬門へ駐屯させ、自らも宮城の門の下に布陣した。
しかし桓範はそこから抜け出して曹爽の所へ赴いた。そのことを蒋済は、「知恵袋が行ってしまいました」と報告する。それを聞いても、司馬懿は焦ったりしなかった。
「爽與範内疏、而智不及、駑馬戀短豆、必不能用也。」
「爽範與内疏にして、而智及不、駑馬短豆を戀、必用能不也。」
(曹爽は桓範の事を内心では疎んじており、理解して判断する力も及びはしない。『駑馬、短豆を恋う』というもので、桓範を用いる事は絶対に無い)
普通、この様な事態になると少しは心配するものだが、司馬懿は全然気に掛けていない。なお、この結果は
桓範果勸爽奉天子幸許昌、移檄徴天下兵。爽不能用、而夜遣侍中許允、尚書陳泰、詣帝、觀望風旨。
桓範果して爽に勸むらく、天子を奉じて許昌に幸し、檄を移して天下の兵を徴せんと。爽用う能はず、而夜、侍中許允、尚書陳泰を遣はし、帝に詣り、風旨を觀望せしむ。
(桓範は果たして曹爽に、『天子を擁して許昌にお出ましになり、檄をとばして天下の兵を徴収しましょう』と勧めた。しかし曹爽はこの意見を用いず、夜になって侍中の許允と尚書の陳泰を司馬懿の元へ遣わして、今後の身の振り方を決めるために様子を見させた)
と、結局は司馬懿の予想通りになっている。司馬懿が落ち着いていたのは、曹爽の性格分析に自信あってのものだったのであろう。
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