18.歓待

 人を招く、あるいは人に招かれる、という経験が、シュジャにはほとんどない。家を行き来するような親しい間柄の相手を、ほとんど作ったことがなかったからだ。少し前に、バナフとルイムに招かれたのが、数少ない経験の一つと言える。あのときは訪れたのが仕事のあとだったし、ルイムが産気づいて慌てて帰宅してしまったから、どう対応するのが適切か知る機会もなかった。


 ただ、人の家に行ってまず湯浴みをするというのは、普通ではない気がする。


 サディクに案内されたのは湯殿というところで、何をするところなのか聞けば、沐浴するところだと教えられた。シュジャが戸惑っているとわらわらと人が入ってきて、シュジャの服を脱がせようとするので思わず叫んでサディクを盾に逃げてしまった。


「ああ、申し訳ございません。シュジャ様は、湯殿が初めてでいらっしゃいましたか」


 湯殿では、専用の働く人がいて、服を脱がせたり体を洗ったり髪を洗ったり、とにかく全部の世話をしてくれるのだそうだ。


 裸になって、他人に自分の体をいいように触られる。


 ぞっとしてシュジャは丁重に辞退しようとした。しかしサディクは物腰柔らかなくせに強敵で、シュジャに湯殿の使い方を教え込み、扉を閉めてしまった。扉を叩いても呼んでも開けてもらえず、湯殿専用の人たちも出て行ってくれたのはいいが、沐浴をしないと出してもらえないらしい。

 仕方ないので、服や荷物を置いておくところらしい場所で服を脱いで、湯船というものがある部屋にそっと入ってみる。

 ここも、天井も床も壁も豪華な装飾があって、なぜか植物まで置いてある。部屋の中央にあるのが、湯船だろう。丸いくぼみの中に、湯が溜まっている。壁の一部には彫刻が施されていて、絶え間なく水が吐き出されているから、あそこがサディクの言っていた、体や髪を洗う場所なのだろう。湯気が立っているから、水ではなく湯が出ているのかもしれない。

 おそるおそる湯を吐き出している彫刻に近づき、シュジャはその傍に置かれていた塊に気がついた。これがたぶん、せっけんだ。

 まずは髪と体を洗って、それから湯船に浸かって温まって出てくるように、と言われた。湯で濡らして手でこすれば、せっけんは泡立つから、それで髪や体を洗うらしい。


 人族の沐浴は、面倒くさい。水さえ浴びておけば大丈夫、と父親に教えられて、沐浴と言えばシュジャにとっては単なる水浴びでしかない。人族は水だけではきれいにならないのだろうか。母親がどうしていたか、シュジャにはちょっと思い出せない。


 シュジャは素直にせっけんを泡立てて、においに顔をしかめた。くさい。獣か何かの脂だろうか。これで髪や体を洗ったら、においがついて鼻がおかしくなりそうだ。とっさにまじないの力で体を洗ったことにしてしまおうかと思ったが、このにおいがついていないと、逆に怪しまれるかもしれない。

 仕方なく、本当に嫌々ながら、髪と体を洗って泡を流し、ついでにしばらく彫刻の下で湯を浴び続けてにおいが薄れないかとはかない努力をし、シュジャは湯船に入った。


「くさい……」


 獣脂を使う薬もなくはないから、シュジャもまったく知らないわけではない。しかし、そのにおいを自分の体に擦りつけることになるなんて、考えてもみなかった。

 そしておそらく、それをごまかすために別の香料が混ぜてあって、においがめちゃくちゃなことになっている。余計につらい。湯船の中にそっと頭まで浸かってみたものの、においが鼻について離れない。最後のあがきでもう一度湯を浴びてみても、獣脂と香料でにおいがごちゃごちゃだ。

 げっそりしてシュジャが湯船の部屋から出ると、サディクや湯殿専用の人たちが待ち構えていた。ぎょっとして立ち止まったシュジャを取り囲み、湯殿専用の人たちがタオルで体を覆ってくる。


「あの、やめ」

「シュジャ様、お体を拭わねば、風邪を召されます」

「で、でも自分で」

「この者たちの職務にございます」


 タオルを貸してもらえれば自分でできる、と主張したかったシュジャの言葉は、サディクによってあっさりと封じられてしまった。丁寧に、肌を擦ることなくタオルを押し当てるようにして水気を取っていき、乾いたと思ったら何かを塗りたくられる。これにもにおいがついていて、せっけんのにおいをごまかすためのものかもしれない。混乱する頭で何とか聞き取ったサディクの説明によれば、湯から出たあとは、こうして体を乾かし香油を塗り込めるところまで、湯殿で働く人たちに世話をしてもらうのが普通なのだそうだ。

 ぞわぞわと肌を走る気色悪さを顔に出さないように努めて、シュジャは体を洗う前に脱いだ服を探した。早く体を隠したい。しかし、見当たらない。


「シュジャ様、こちらを」


 サディクの声に振り返ると、湯殿の人たちが真新しい服を用意して待っている。少なくとも、シュジャが着てきた服ではない。

 戸惑って後ずさろうとするシュジャを囲んで、手慣れた様子で湯殿の人たちが服を着せかけてくる。触られるのは最小限で、どうやって誘導されているのかわからないほどだ。いつのまにか足を通され、下着が大事なところを覆って、足元に気が向いている間に上の服も着せられている。

 最後に織物を肩にかけられて、シュジャは中途半端に腕をあげた状態で固まった。


「よくお似合いです、シュジャ様」


 シュジャの肩にかけられたストールを直し、サディクが発した言葉で、シュジャは硬直から解放されて、おずおずと後ろに下がった。

 この人族たちが、何をしようとしているのかわからない。


「おいでの際のお召し物は、僭越ながらお預かりし、洗わせております。お帰りの際にまたお渡しいたしますので、今はどうぞそちらをお召しください」

「……はい」


 本人だけでなく、服も丸洗い。そこまで薄汚れて見えたのだろうか。

 少々いぶかしく思いつつも、シュジャは大人しくうなずいた。問題を起こして、目をつけられては困る。シュジャの目的はこの館の中でアースィーを探すことであって、歓待を受けることではない。そのためには、サディクの目が離れる機会をうかがわなければならないし、警戒されてはいけない。


 唯一返してもらえた荷物袋を体の前に抱えて、シュジャは再び前を歩くサディクのあとについて廊下を進んだ。天井や床、壁の装飾に同じものはなく、飾られている絵や壺にも一つとして同じものはない。いくつかはシュジャもきれいだと思うが、それよりは合間合間に置かれた植物のほうが、心を和ませてくれる。


「それではシュジャ様、さっそく主人にお引き合わせを、と言いたいところなのですが、大変申し訳ございません。主人カザールに急な予定が入ってしまいまして、こちらで少々お待ちいただきたいのですが、よろしいでしょうか」


 よくないと言ってどうにかなるものでもないだろう。

 素直にうなずいたシュジャにほっとした顔をして、サディクが人を呼び寄せる。この人族たちは、シュジャのように館を訪れた客をもてなすのが仕事なのだそうだ。ぐいぐいと長椅子に座らされてしまい、荷物袋を取られそうになって、シュジャは慌てて抱え直した。シュジャの荷物を受け取ろうとした人族がサディクに視線を向け、サディクが首を横に振る。それだけで、その人族はシュジャから離れていった。


 どれほどの人間が、この館で働いているのだろう。これだけの人数をかいくぐって、造りも何もわからない館の中で、本当にアースィーを探せるだろうか。ここまでずっとサディクが傍について離れないし、一応案内された場所の道順は覚えるつもりで歩いてきたものの、すでに自信がない。

 長椅子の前にある背の低い机に、食べ物や飲み物が運ばれてくる。きれいに絵付けされた縁の薄いカップに入っている飲み物は、透明なのに赤っぽい色がついていた。


「お飲み物に砂糖はお入れしますか?」

「さ、砂糖……?」

「ミルクもございます」


 砂糖もミルクも、高級品だ。砂糖はウルジュラザートでは生産されていない上、町の外から運び込まれる量が少ない。ミルクなどすぐ傷んでしまうから、家畜を飼っているものしか飲むことができない。そして、ウルジュラザートのような砂の国で家畜を飼うには、金がかかる。

 しかし、砂糖。サディクが蓋を開けた容器から、小さな白い砂山が見える。砂糖の中でも、白いものはさらに高価だったはずだ。


「……砂糖だけ、ください」

「承知いたしました」


 さらさらと砂糖が投入された飲み物をサディクがかき回すのを、シュジャはじっと見つめていた。

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