15.一人

 静かだな、とシュジャはぼんやり寝床に転がっていた。

 外はすでに明るくなって、日もそこそこの高さになっているのだろうが、起き上がる気にならない。急ぐような用事もないし、起きるように促してくる相手もいない。


 アースィーはすでに家を出ていて、領主館に忍び込む機会を伺っているはずだ。その間シュジャは、待つしかない。

 しかし、いい加減起き上がらないと、人としてまずいかもしれない。

 のそり、と体を起こすと黒い髪が流れて、シュジャの腕をくすぐった。


 アースィーが来てから、なぜか楽しそうにシュジャの髪を手入れするので、そのまま伸ばしてしまっている。ウルジュラザートでは黒髪が目立つこともないので構わないが、シュジャが幼い頃にいた国では、黒い髪も、褐色の肌も、奇異の視線にさらされた。

 あの頃なら髪を伸ばすなんて考えもしなかっただろうな、と思いながら、もたもたと髪をまとめる。いつもアースィーがやってくれていたから、髪の毛はほとんどシュジャの言うことを聞かない。そういえばアースィーは櫛でとかすことから始めていたかもしれない、と思い出して、いつのまにか家に増えていた櫛を探す。髪の毛が垂れ落ちてきて邪魔だ。ばっさり切ってしまいたい。

 考えた途端にアースィーが悲しそうな顔をする光景が見えて、シュジャは大人しく櫛を探した。棚から取り出した櫛を髪に入れて、アースィーが動かしていた真似をする。


 自分のことは自分でやってきたつもりだし、何十年か、忘れてしまったがずっと一人で生きてきた。

 それをあっさり、アースィーがいないとうまく生活できないようにさせられてしまった。ほんの少し苛立つ気持ちの傍らに、悪くないかと受け入れる気持ちもある。どう折り合いをつけたものか、シュジャはそっとため息を漏らした。

 髪の毛がちっとも言うことを聞かない。


 諦めて髪を下ろしたままにして、シュジャは竃に火をつけた。残っている食料を調理しながら、旅に持っていくもの、置いていくものを頭の中で選り分けていく。

 食器はある程度持っていかなければならないが、アースィーは使うだろうか。旅の間、食事は狩りで済ませるかもしれない。ただ、シュジャと同じものを食べようとする可能性もあるし、持っていかなかったら悲しむかもしれない。食器は二人分あったほうがよさそうだ。


 元々、シュジャの持ち物は少ない。一つの町に定住はしないし、旅をするのに大荷物は邪魔になる。加えて、父親に譲られたものだとか、母親の形見とかいったものも持っていない。調薬の道具が少しかさばるくらいだろう。着替えの類いも最低限で、思い入れのある家具もない。


 いつ、逃げ出さなければならなくなるか、わからないから。手回り品は、少ないほうがいい。


 簡単なまじないの言葉、アースィーの言い方で言えば魔法の呪文はいくつか知っているものの、シュジャはアースィーほど自在にはまじないの力は使えない。腕っぷしも強くはない。もし誰かに襲われたとしたら、逃げるのが基本だ。一戦交えるよりも、身を守るにはとっとと逃げてしまったほうがいい。それゆえに、置いていくのがためらわれるようなものは、そもそも持たないようにしている。


 だから、アースィーと別れるのが嫌だというのが、初めは自分でもよくわからなかったのだ。今まで、人やものにそこまでの感情を抱いた覚えがない。昔はあったかもしれないが、少なくとも、ここ数十年のシュジャはそうだ。


 朝食か昼食かよくわからない時間の食事を終えて、シュジャはきっちりとターバンで顔を覆い、外に出た。

 急ぐ必要はないが、旅の間の日持ちする食料や、こまごまとした道具は買わなければならない。そして今は、アースィーの魔法がないので、シュジャは洞窟エルフの姿のままだ。以前のように顔を隠さなければならない。

 家から離れ、なるべく普段行かない通りまで出向いて、日持ちする食材を買っていく。それから別の通りに移動して、天幕、砂から身を守るための本格的な外套、水を入れるための革袋、調理用のナイフ、旅に必要な道具を選ぶ。


 旅の道具は、町に着いたら売り払うようにしている。使わないまま保管していても痛むし、必要になったらまた買えばいい。また、自分の感覚頼りだが、何か不穏なものを感じたら、途中の町で買い換えることもある。これも身の回りの道具を減らすためと、シュジャに対して妙な興味を持った人間が、あとを追ってこないようにするためだ。

 シュジャに興味を持ったとして、普段はターバンで顔を隠しているから、道具を目印にしようとするだろう。その道具が売られていれば、その町に住み着いたのかと思わせることができる。その間に道具を買い替えて別の町に行ってしまえば、シュジャを見つけにくくなる、はずだ。


 そうして身を守ってきたから特段思うこともないはずなのだが、こうして二人分の荷物を抱えて、人のいない家に帰ってくると、なんだかひっそりとして見えて物寂しい。ターバンを取っても、アースィーがいないから顔を拭いてもらえない。


 ターバンと外套を棚に片づけ、アースィーの分の荷造りをし終えると、シュジャは手を止めてじっと寝床を見つめた。それから自分の荷物を放り出して、寝床に潜り込む。


「ベッラーレ」


 感覚を強化するまじないを唱えると、シュジャは頭から上掛けをかぶった。


 こうすると、アースィーのにおいがする。寝床にはまだ、アースィーが残っている。


 子どものようだと思いつつ、シュジャは上掛けで自分を包み、もぞもぞと体勢を落ちつけた。また会いたいと伝えて、アースィーも再会を約束してくれたから、この家で帰りを待っていてもいいはずだ。

 いつ帰ってくるだろう。今日の夜、は、おそらくない。早くて今晩忍び込めるかもしれない、という予想だったし、領主の屋敷は広いのだ。目的の物がどこに置いてあるのか、それを探すだけでも時間がかかるだろう。


 今日の夜は、帰ってこない。明日の夜なら、帰ってくるかもしれない。帰ってこないかもしれない。


 それで、待つという行為がほぼ初めてであることに、シュジャはようやく思い至った。

 誰かと約束をしたとしても、それは待つという意識を持つほどのことではなかったし、また明日、くらいの気軽なものだった。いつになるかわからない約束など、したことがない。

 けれど、アースィーはいつ帰ってくるかわからないし、その間、シュジャにはまるでできることがない。こうやって子どものように、そわそわと家にいるだけだ。


 寝返りを打って、シュジャはそっと目を閉じた。

 アースィーには、会いたい。だからここで待つ。それはいい。でも、待つのは、慣れていない。いつまでこの家にいればいいのか、目処がわからないのも、やることが何もないのも苦痛だ。


 悶々と身を丸めて自分の呼吸に意識を集中させていると、波立っていた気持ちが落ちついてくる。そのまま気づけば眠り込んでいて、次に目を開けたときには外が暗くなっていた。


 今晩は、アースィーはまだ帰ってこない。

 淡々と食事の用意をして、一人で夕食を食べ終える。いや、でも、もしかしたら、早く終わって帰ってくるかもしれない。すぐに温めて食べられるように、スープに具材を増やして竃に置いたままにしておく。

 また寝床に潜り込んで、シュジャは上掛けをかぶり直した。あとはアースィーを待つだけなら、調薬をすることもないし寝るだけだ。


 そうしてシュジャが再び眠りに落ち、朝になってもアースィーは戻っていなかった。冷えたスープを温めて、もそもそと口に運ぶ。

 領主の屋敷に薬を届けるのは、早くて昨日という話だったから、昨晩は忍び込めなかったのかもしれない。それなら今晩忍び込んで、明日には帰ってくるかもしれない。


 朝食を終える頃には、シュジャにも理解できていた。待つという行為は、はっきり言って苦手だ。何もすることがないのも一因なのだろうが、いつ終わるともしれないのが辛い。いつまで、と決まっていれば少しはましなのかもしれないが、今回は終わりがいつになるかわからない。


 意外と自分は我慢ができない性格だったらしい。

 長い髪を何とか収めつつ、シュジャはターバンを巻いて家を出た。

 何もせずに待っているだけなのは、そわそわして落ちつかない。だったら、自分にできる何かを探したほうがいい。

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