14.約束

 薬が領主の屋敷に届けられるのは、早くて明日の夜、遅くとも明後日の夜。

 それまでに忍び込む準備が必要なはずなのに、アースィーはシュジャを抱えて飲み物を飲んでいる。


「アースィー?」

「うん?」


 シュジャはペットというものを飼ったことはないが、犬猫を抱え込んで嬉しそうにしている子どもを見たことならある。ちょうどそんな具合だ。いくら何でも大人と子どもほどの差はないが、シュジャの体にアースィーほどの厚みはない。


「なぜ抱えられているのかわからない」


 こんなことはもうないだろうから、と思って、シュジャは果物と、少し背伸びをして砂糖を買って帰った。ノスト・アル・カラズにはいろいろな品物があるが、それでも砂糖は高級品だ。それを水に溶かし、果物を絞った汁を混ぜて、シュジャは喉が渇いたと言っていたアースィーに差し出した。

 アースィーは嬉しそうに、なぜかコップではなくシュジャを抱えて座り込み、それからようやく飲み物を手に取って、この状態である。


「心の渇きには、シュジャが必要だから」

「……うん……?」


 アースィーが何を言っているのか、シュジャにはまったくわからなかった。

 いや、まったくというほどではない。かもしれない。心の渇きというのは、おそらく、疲れているのだろうと思う。おそらく。

 だったら寝たほうがいいと思うのだが、アースィーの場合は、シュジャを抱えたいらしい。シュジャとしても、アースィーの体はひんやりしているから、抱えられていても暑苦しくはないし、くっついているのは嫌ではない。

 しかし、座っているだけではやはり体は休まらないし、シュジャは完全にアースィーに体を預けているので、重たいのではないだろうか。


 シュジャは混乱していた。


「シュジャ」


 アースィーの声が、柔らかい。

 顔を向けると口元にコップを近づけられたので、受け取ってシュジャも飲み物を口に含む。甘いし、後味がすっきりしておいしい。


「何が嫌だったの?」


 飲み物の味に口元を緩めたところで、コップを受け取ってアースィーが尋ねてくる。何のことかと目を瞬いて、シュジャはジューラの店に向かう前の会話を思い出し、顔をしかめた。

 あれは、シュジャにもどう扱っていいかわからない。


「……わからない」

「何かが嫌だったんだよね?」


 アースィーのほうは、うやむやで終わらせるつもりはないらしい。シュジャの髪を撫でて、穏やかな気配のまま続けてくる。シュジャにとっては、あまり追究したくないところなのだが。

 黙ったまま、それでもアースィーの腕の中から出ていくことはしない。そんなシュジャを見て、アースィーはどう思っているのだろう。


「……俺は、シュジャに気持ちよく過ごしてほしい。嫌なものがあるなら、全部取り除きたい。それが俺自身だったとしてもね、シュジャが嫌なら、いなくなるよ」


 嫌だ、とまた思って、シュジャはアースィーの腕を掴んだ。


「……アースィーがいなくなるのは、嫌だ」

「……そう?」

「……うん」


 アースィーの手に撫でられると、ほっとする。


「アースィーがいなくなるのは、嫌だ」


 もう一度口にして、胸がもやもやしたのはそのせいだった、とシュジャは理解した。

 探し物が終われば、アースィーは自分の町に帰るだろう。シュジャがそこについていく理由はないし、食べるものも違うのだから、同じ暮らしをするのはそもそも難しい。

 それでも、アースィーと別れるのが、嫌だったのだ。


「……そっか」


 後ろから抱きしめる力が強くなって、シュジャはきょとんと目を瞬いた。


「アースィー?」

「俺がいないの、嫌だって思ってくれるんだ」


 声からすると、喜んでいる、だろうか。

 シュジャはどちらかと言えば迷惑をかけるようなことを言ったはずで、それをアースィーが喜ぶ理由はない。後ろから抱えられているから、アースィーの表情は見えない。


「……アースィー、顔が見たい」


 すぐに体を反転させられて、アースィーと向かい合って見上げる形になる。口の端が上がっているし、アースィーは機嫌がいいとみなしていいだろう。

 わずかに首を傾げたシュジャを、アースィーが撫でてくる。


「俺と一緒にいたいって、思ってくれてる?」


 別れが嫌なら、一緒にいたいということだとは思う。

 少し迷いながらもうなずいたシュジャに、またアースィーが嬉しそうな顔をする。


「……アースィーは、どうしてそこまで私を構うんだ」


 どうしてアースィーがシュジャの感情を気にするのか、わからない。アースィーがシュジャの家に滞在するのは探し物をする間だけであって、それ以降は関係ないし、その間だってシュジャを構う必要はないだろう。

 アースィーがしたいことをすればいいとは思うものの、それがシュジャのためにあれこれすることだと言われると、理由がよくわからない。


「俺の種族の……特性、かな」

「特性?」

「決めた相手のためなら、何でもやるって感じ」


 その相手が快適に過ごせるように、心安らかでいられるように、あらゆる手を尽くし、守る、らしい。

 ただ、アースィーがシュジャを守ると約束したのは、居候させてくれと言い出した日だ。つまりほぼ出会ったときからと言っていい。

 人と会ってすぐに決めていいものなのだろうか。なんとなく、そういうものではない気がするが。


「……アースィー、それは……簡単に、決めていいものなのか?」

「一生かけて探す人もいるよ」


 つまり軽々しく決めていいものではない。アースィーのすることをシュジャが止めるのもおかしな話かもしれないが、少なくとも、それほど大切な相手にシュジャを据えるのは間違いだろう。

 口を開こうとするシュジャの唇を、ごく自然にアースィーの指が封じる。


「俺が選んだのは、君だよ」


 オアシスの浅いところは、青色が薄くて、きらきらと輝いて綺麗だ。それによく似たアースィーの瞳が、じっとシュジャを見つめている。


「シュジャを、俺は選んだ。そのことも、探し物が終わったら話したいんだ」


 シュジャの唇を抑えていたアースィーの指が離れていく。大人しく見上げているシュジャを、アースィーは急かさないし、話は終わりとばかりに視線を逸らすこともない。


「……探し物が終わっても、会えるのか」

「このままお別れなんて、俺は絶対嫌だ」

「……そうか……」


 会えるのか。

 じんわりと体の力が抜けていって、シュジャはもぞもぞとアースィーに身を寄せ、肩に頭を乗せた。


「シュジャ?」


 戸惑ったようなアースィーの声がするが、シュジャは答えなかった。そのまま頬をすりつけると、アースィーの手がおずおずとシュジャの体を抱きしめてくれる。


「シュジャ……」

「アースィーが戻ってくるまで、待っててもいいのか」

「……もちろん」

「そうか」


 一人でいるのが普通になっていたから、そんな約束をしたのはずいぶんと久しぶりだ。父親は帰ってこなくなったし、母親はシュジャよりずっと先に死んだ。他の洞窟エルフは、シュジャを近づけようとしなかった。

 だから、アースィーを待っていてもいいのは、嬉しいはずなのに、胸のあたりが熱くなって、言葉が出せなくなる。確か、まだ幼かった頃に泣きたくなったときには、こんな感覚だったかもしれない。


「……アースィー」

「うん?」


 撫でてくれる手が、心地いい。


「悲しいわけではないのに、涙が出る」


 アースィーのひんやりした体にくっついて、抱きしめてもらって、撫でられて、何一つ嫌なことはない。快適で、安心で、気を抜いていられるのに、勝手に涙があふれてくる。


「……すごく嬉しいときに、涙が出る人もいるよ」

「……そうなのか」


 嬉しいのか。誰かと、ほんの少し先の話をしただけで。また明日とか、今度食事をしようとか、今まで滞在した町でちょっとした約束をしたことくらいあるはずなのに、アースィーとした約束は、何か違うのか。

 少し考え込んで、シュジャはそっと体を起こした。アースィーは戸惑った表情をしているものの、変わらずシュジャを好きにさせてくれる。


「アースィー、また会いたい」


 アースィーは軽く目を瞬いて、シュジャの目元に触れてきた。指でこすられたのは、涙を拭いてくれているのかもしれない。


「もちろん、シュジャのところに帰ってくるよ。今は内緒にしてることも、話したいし」

「……ああ」


 よかった。

 思わず小さく呟いたシュジャに、アースィーも柔らかく微笑んだ。

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