12.計画
「アースィー、離せ」
返事はない。
「アースィー、離せ」
「んーん」
返事があった。ただし、言うことを聞く様子はない。
がっちりとアースィーの腕に捕らえられたまま、シュジャは未だに寝床の中にいた。朝食を作るために起き出そうとした途端、まだ眠っていたはずのアースィーの腕に力が入り、引き戻されてしまったからだ。
アースィーは確実に眠っていたし、起こしてしまった、ということはないはずだ。どうして反応されたのかわからない。
「まだ……ねむい……」
「……私は起きたい」
むにゃむにゃと言葉になっていない何かを呟いて、アースィーがシュジャを抱え込む。後ろから抱えられているので、体を押しのけることもできない。
「アースィー、はな……っ?」
首に何か触った。アースィーの腕はシュジャの体に回っているから、手ではない。もっと硬くて、濡れている。
「っ、なに……?」
痛みはない。恐怖もない。ただ、何度も触れてくる。こそばゆいというか背中がそわそわするというか、今まで味わったことのない感覚が走る。
嫌だ。
「アースィー!」
半ば叫ぶように名前を呼ぶと、首筋の何かが止まった。腕が緩んで、そっと体を反転させられる。
「……ごめん、シュジャ、寝ぼけてた……」
アースィーは、うろたえているようだった。じっと見つめるシュジャにおろおろと視線をさまよわせ、もう一度、小さくごめんとくり返す。
「……私に、何をしたんだ」
こういうときに、どう対応するのが適切なのか、シュジャはよく知らない。
ただ、何も理解しないままうやむやにはしたくない。
「…………シュジャの首、噛んでた」
返事があったのは、かなり間があってからだ。アースィーにとっては非常に言いにくいことのようだが、答えないということはないらしい。
しかしなぜシュジャを噛んだのか、謎は深まってしまった。
「……私を食べるのか?」
「食べないよ!?」
思い当たるところを尋ねたが、アースィーのほうが驚いたようだった。アースィーは肉を食べる種族のようだし、人間種族も食べるのかと思ったのだが違うらしい。噛むことに、食べる以外の用途があるのだろうか。
「なら、どうして噛んだ?」
首に触れていたのが何かわからなかったにしろ、殺されそうな恐怖は感じなかったから、アースィーの言っている通り人間種族は食べないのだろう。ただ、噛むことに食べる以外の意味があるなら、知っておきたい。
一応シュジャにも、自分の対人能力が低い自覚はあるのだ。他の誰かと話すときに、知らないと困るかもしれない。
「えっと……」
「アースィー?」
しかし、アースィーはあからさまに視線を逸らした。答えを待ってじっと見つめていると、そろそろと視線がこちらを向いて、ちょっと眉尻が下がる。
「……その、えーっと……うん、愛情表現、というか……」
要領を得ないというかしどろもどろというか、はっきりしない様子で答えたアースィーに、シュジャはわずかに首を傾げた。
シュジャの認識では、愛情表現、というのはいいものであるはずだ。少なくとも、後ろめたいものではない。アースィーがシュジャに対してやってみせることに疑問はあるが、受け答えがおかしくなるようなものでもないだろう。
「噛むと愛情表現なのか?」
獣なら、噛むのは攻撃手段の一つだと思うが、人間種族では噛むという原始的な攻撃手段は好まれない気がする。いや、獣人なら噛むかもしれない。彼らには、鋭い牙も丈夫な爪もある。アースィーは獣人ではないが、案外それに近い種族なのだろうか。
「……俺の種族では……甘噛みとか、する……」
「あまがみ?」
そっと腕を取られて、手首のあたりにアースィーの顔が近づいた。そのまま軽く歯を当てられて、少しだけ力が加わる。痛みはない。相手に怪我をさせない程度に、柔らかく噛むことを言うのだろう。
「これ」
「そうか」
不快感はないし、恐怖もない。シュジャには馴染みがないが、アースィーの種族にとっては、撫でたり抱きしめたりするのと同じ感覚なのかもしれない。
「……嫌じゃない?」
「アースィーがしたいことなら、していい」
さっき嫌だと感じたのは、体に知らない感覚が走ったからだ。今はアースィーが目の前で見せてくれたから、何が起きたかわかったし、何をされたのかもわかった。だから嫌ではない。
アースィーの浅い青をした瞳が、じっと見つめてくる。
「いいの?」
「本当に嫌なことは止める。今のは構わない」
嫌なことを嫌と伝えれば、アースィーはやめてくれる。だから、アースィーの腕の中は安心していい場所だし、アースィーと話をするときには、落ちついていられる。
種族はわからなくても、アースィーがシュジャを傷つけないことがわかっていれば、恐れる必要はない。
「……ありがとう」
ぎゅっと抱きしめてくるアースィーは、おそらく落ちついたのだろう。腕ごと抱えられていて反応ができないので、ひとまず頬を寄せておいて、今度こそ寝床から抜け出そうと試みる。
「……アースィー、離してくれ……」
苦しくはないので手加減というものはしてもらえているのだろうが、それにしてもシュジャがすんなり起き上がれそうな気配はない。特段鍛えているというわけでもないが、それでも成人男性としての力くらいは備えているシュジャが、アースィーの前では赤子も同然なのだ。本来なら恐怖を感じてもおかしくないのかもしれない。
「朝食を作りたいんだが……」
アースィーが喉を鳴らしている。機嫌がいい証拠ではあるのだが、こうなるとシュジャを抱え込んで離さない場合が多い。
「アースィー、腹が減った」
そこまで空腹というわけでもないが、シュジャを基準に話をすると、アースィーはだいたい動いてくれる。
のそりと起き上がると、アースィーはシュジャを抱き上げた。そのまま竃近くまでシュジャを運び、下ろしてくれるのだが、離れようとしない。
説得と調理の時間を天秤にかけて、シュジャは水を入れた鍋を火にかけた。細々した野菜の残りを丁寧に刻み、沸いた湯にイトリィを入れてゆでる。
シュジャにとっては慣れた手順で、アースィーが後ろにくっついていても手が止まることはない。多少邪魔だなとは思うが、シュジャの作業を遮ろうとしてくるわけではないし、大人しく懐いてきているだけだ。香辛料を混ぜて別の鍋に落とし込み、ゆでたイトリィを加えてスープを完成させる。
「アースィー」
声をかけると、素直に皿を二つ取ってきてくれたので、順番によそってまた皿を渡す。今度はそれを食卓まで持っていってくれるので、簡単に後片付けをする余裕もある。
テーブル代わりの箱を二人で囲んで、ようやく朝食だ。
「……肉が食いたい……」
「外で食え」
十分な金は与えているはずなので、シュジャは容赦なく言い放った。体質に合わないからシュジャは肉を食べることがないし、買いたいとも思わない。
ただ、他のことでなら、アースィーにいい話ができるかもしれない。
もそもそと口を動かしているアースィーが中身を飲み込んだところで、シュジャは切り出した。
「お前の探し物を、手伝えるかもしれない」
次の一口を食べようとしていたアースィーが、顔を上げて眉をひそめた。
いぶかしんでいるのか、手を出されたくないのか、どちらなのかシュジャには判断がつかない。
だから、領主が病気になったらしいこと、薬はないかと卸している店に聞かれていて、効くかどうかわからないが薬は作ったこと、今日の道具屋の仕事が終わったら、老婆の店に届けに行こうと思っていること、シュジャの事情だけを伝えていく。
「普段と違うことが起きていれば、警備も緩くなるものだろう」
実際にそうなのかわからないが、シュジャが提案できるとすれば、それくらいだ。
口を結んだシュジャに、アースィーは険しい顔をした。
「……シュジャが危ない」
薬自体はいい。アースィーが領主の館に忍び込むのも、自分が注意すればいいだけだから、構わない。
ただ、領主が薬の製作者を探そうとしたら、シュジャが洞窟エルフの血を引いていることが露見する可能性は高くなり、何より領主は不老不死の噂を信じている。シュジャの身に危険が及びかねない。
シュジャも考えたことを口にして顔をしかめるアースィーに、シュジャはほんのりと口角を上げた。
「薬を渡して、お前も探し物を取り戻せたなら、私はこの町を出る」
「……は?」
「元々、一つの町にあまり長居しないようにしている。安全な場所などないから」
アースィーがいなくなれば、顔を隠さず自由に出かけられる生活はなくなるが、今まで通りに戻るだけだ。わずかな間でも、何も心配せずぬくぬくと過ごす時間をくれたアースィーには感謝しているし、最後に少しばかりの手助けができるなら、多少のお礼にはなるだろう。
「……シュジャ、この町にいたいんじゃないの?」
呆然とした様子のアースィーに聞かれて、イトリィを食べ終わったシュジャはわずかに首を傾げた。そんな話をしたことがあっただろうか。
「……安住の地ではないだろう」
そんなものがないことを理解した上で、シュジャはそう答えた。一人で身を守って生きるには限界があり、自分がいつかどこかで捕らえられて、もしかすると食われるかもしれないことは予想できている。
しかし、シュジャは町の外では生きられないし、たった一人で孤独に生きられるほど、達観しきってもいない。それでも、死ぬのは怖いから自分にできる対処をしているだけだ。
「何だよ……」
アースィーが盛大にため息をついた理由も、シュジャにはわからなかった。
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