第20話
夜中、なんども目がさめて、カーテンの向こうがほんのり明るくなったころ、ようやく隣の男を起こさないよう、シングルベッドから滑りおりた。
「眠れるわけねーだろ……」
そうひとりごちて、すやすやと眠る男の、わずか汗ばんだ額を撫でようとして、傷ついたみたいに手を離す。まだ男とキスすらしたことはなかったけれど、同性愛者だという自覚はすでにあった。時代だろう、「ホモ」だとからかわれることもすでに分かっていて、そうでないようふるまうやり方にもさとく、うまい具合にいつか異性も好きになれるんじゃないかとまだ幻想はあったころで、じっさい舌をからめないキスだけなら女子としたことは何度かあった。
だんだん父親に似てくる顔つきがいやで、高校に入るなり眼鏡をかけはじめた。もちろん、度は入っていなかったし、いまここで誰かに装う必要もないから、レンズのない金ぶちの眼鏡は机のうえに置いたまま、彼の部屋を離れた。
背のひくい一戸建ての裏、銀色のT字型をした煙突をのばす竈のわきを歩けば、そうおおきくない湖があり、向かいには酒蔵が見えるはずだったが、いまは朝霧が垂れ込めていた。どこからか水のちょろちょろ流れるような音がして、その源をさがすごとく湖畔をぶらぶらしたところ、小川に渡した簡素な橋のうえから、立ち小便をしている男がいた。
いいなあ。気持ちわるさより、まずそう考えてしまった。
彼はこちらに気づくと、そう気まずそうでもなく、
「君もやりなさい」
と、さそった。
彼のとなりに立ち、ジャージをすこし下ろして、まだ朝勃ちが残ったままのそれをはみ出させれば、ふっと力を抜く。湖に向けて、きいろい小便がアーチをえがく。それは思っていたより気持ちよかった。
「一至くんはなんでガッツくんって呼ばれているの?」
うなだれたペニスをしまったころ、彼にそう尋ねられた。その理由も昨夜の晩酌のときに教えていたんじゃなかったか、
「女の子にガッツくからガッツくんです」
と、率直に答えた。
抜群にウケを取れるはずのくだりだったのに、彼は笑わなかった。代わりに目をほそめ、
「でも君、海晴のことが好きでしょ?」
と尋ねてきた。
「そんな単純な話じゃないですよ」
笑ってしまったのは自分のほうだった。彼のそれは「尋ねる」というよりずっと確信的な口調だったから、誤魔化している不義理はわきまえつつ、うらがえった声でもそう答えるしかなかった。
そのさきは、会話らしい会話はなかった。朝霧はゆっくりと晴れ、湖のむこうには、しろい酒蔵と、とおくに山々まで見通せた。
彼はひとつひとつの山の名前を指さしで教えてくれて、それらを越えれば海があることを話した。その寂しそうな声色で、彼が息子に「海晴」と名づけた理由がうかがえるような気がした。
三十秒だけ目をつぶりなさい。そううながされ、言われたとおりにした。ゆっくりと三十かぞえ、目をひらけば、
「そこに見えるのがほんとうの空なんだ」
と教えてくれた。
これから海で暮らす息子の身を案じているのだという。地震や津波や原発の話もたくさんしてくれた。きっとこれから大変な困難があるだろう。そんななか、恋をして、子を持ち、生きていかなければならないだろう。「どこにいても礎になるのが思い出であり、ほんとうの空」だと話し、直接息子に言えばいいんじゃないのか、きっと二度と戻ってこないことが分かっていたのかもしれない。彼の息子の将来を託された気がして、信じてもらえたことがうれしかった。
海晴が起きてきたのち、趣味の料理のため朝市に出かけた母親を見送って、さんにんで食卓を囲んだ。父親と海晴はうまくいっていないようで、食卓で言葉がかわされることは殆どなかった。父親がこしらえてくれた、具のない粗末な白粥はじつに粗末で、食べたことがないぐらい不味かった。
「忘れられない味になる」
好きなひとの父親が正面で照れ臭そうに言ったそれは、おそらくそのとおりになった。
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