第19話
帰りみちはイミが運転してくれた。夏美が「山がみたい」だの「海がみたい」だのせまい後部座席から身をのりだし、尻やら足やらがぶつかるぐらい暴れるので、中国自動車道ののち名神から中央、長野、上信越、北陸、磐越と、「死にたくなかったら黙れ」オーラを発しハンドルをしっかりにぎるイミの運転が慎重なうえ、道をまちがえたこともあり、ながい行程になった。車内で二泊したのだが、山を越えるサービスエリアで寝たときは、標高がたかいからだろう、ずいぶん寒く、こらえきれず、あつい缶コーヒーをもとめて震えながら自動販売機まであるくと、夏美がひざを抱えしゃがんで、すべての光を呑むような漆黒の湖をみおろし、地面でうっすら灯るスマホを叩いていた。
「眠れないの?」
そうつぶやくと、口から乳白色の靄がおどろくほどあふれた。どこで買ったのか、夏美の手にはビールの缶が握られていた。そのぐらいで酔うはずもないのに、夏美の頬も耳もまっかで、ぐずぐずに鼻水が垂れていた。いつかおなじように妊娠中に酒をのんだ夏美の母にそうしたとおり、頬を張れなかったのはなぜだろう。あのとき言えなかった台詞が、いまになって自分を責めた。
夏美が抱きついてくると、あまい酒のかおりがした。あたる胸よりも、おおきなお腹のほうが気になった。ふざけて抱きついてきたことは初めてじゃないのに、首に手を回してきて、こんな抱き方をするんだ、ということにおどろいた。
「うぷ」
こわれた蛇口みたいに、夏美の口から吐瀉物があふれ、Tシャツを汚した。それは自分のものがそうであるとおり、奇妙に気持ちわるくなかった。
「ごめん、つわりが」
たいしてつわりも重くなかったくせ、夏美は冗談っぽくそう言ったけれど、かなしいぐらい実感のある声色だった。
「あんま意味なかったな」
ようやくこわばった頬をゆるめて、夏美にそう話しかけた。夏美の子の父親と会うための旅なはずだった。が、ゆかりの地をまわったところで、手がかりひとつ掴めない。しかし謝るのはちがう。
「そうでもないよ。わたし、この子を産む理由をみつけたから」
キスされそうになって、あわててあごを引けば、夏美は鼻のあたまを「かわいい」と人差し指で押してきたのち、勢いよくたちあがり、向かいあうようにぐっと顔をあげた。タイミングわるく現れたトラックのヘッドライトが逆光になり、彼女の表情はうかがえず、こえだけが、「バックします」とうたう女性のこえにまじり、聞こえた。
「ガッツくん。知ってる?」
目がくらむぐらいまぶしい、夏美のこえが、忘れかけていた名前を呼ぶ。ああ、この感覚は、あのときの。なあ、海晴。海で育ったお前が、どうして娘にこんな名前をつけたんだ。お前が津波にさらわれたいま、俺はこの子になにを望んだらよかったんだ。
「これはイミが調べてくれたことなんだけど、おなかの子のお父さんのインスタってね、全国各地の写真がならんでるの。それはもう、北は北海道から、南は鹿児島まで、たくさんの町の写真。イミがひとつひとつの場所を特定してくれて、この旅では、とくに彼がいそうな場所をめぐったわけなんだけど」
逃げろとこえがする。津波のアナグラムが押し寄せてくる。
「いまわたしたちが帰ろうとしてる町はね、ひとつだけ、<彼がいなかった町>なの」
ちがう、沖縄も撮らなかった。いや、行けなかったんだ。だって沖縄には父さんがいたから。あちこち連れまわしたあげく、原発事故を理由に逃げた父さんが、どうしても許せなかった。もう会いたくないと思った。津波におそわれたあの町の写真を撮れなかったのとおなじ理由をつけて、俺は父さんが映るその風景から逃げた。俺はひどい男なんだよ。父親になる資格なんかないんだ。
トイレに入り、吐瀉物まみれのシャツを脱いで、顔を洗った。そのまま三十秒だけ目をつぶり、ひらくと、うすよごれた鏡のなか、いつのまにかびっしり生えた髭だとか、乳首のかたち、とびだしたへそ、眼鏡を取った瞳に、目を疑いそうになった。
「父さん……」
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